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正直者が馬鹿を見る日本で、それでも「うそをつかない」で生きることの意味

この記事は約5分で読めます。

最近、自分の中でホットなキーワードがいくつかある。

そのひとつがPersonal Integrityだ。感覚にすぎないが、スウェーデンではこのIntegrityが高い人が多いような気がしている。

Integrityとは?

Integrity(インテグリティ)という言葉は、腐敗・汚職を撲滅する国際NGOのスクールに参加したときに出逢った。政治の透明性・汚職の撲滅は、ひとりひとりのIntegrityに関わることであると、このセミナーで教わった。

Integrityの訳は、「整合性・完全性・統合性・高潔・品位」などいろいろあるが、ピーター・ドラッカーの翻訳では「真摯さ」と表現される。

“They may forgive a person for a great deal: incompetence, ignorance, insecurity, or bad manners. But they will not forgive a lack of integrity in that person.”

(無知や無能、態度の悪さや頼りなさには、寛大たりうる。だが、真摯さの欠如は許さない)

ただバカ「正直」であれば良いというわけではなく、そこに倫理的な道義が加わった状態、つまり筋が通った「誠実さ」ともいえる。自分の中に本来的に備わっている価値と行動が首尾一貫している状態といえよう。

では、正直さと道義とはどのように身につくものであるのか。なぜ、スウェーデンではIntegrityの高い人が多いのだろうか。そんなことを考えていた。

***

前回のエントリー「やりたいことが自分の中にあると思っているあなたへ」で、

・やりたいことは、人とのつながりの中にあるということ
・自分を表現することことで、人とつながることができる

と書いた。

表現をする方法は多くある。アート、ダンス、作曲、文章、ブログなどの表現活動っぽいものから、仕事、お金の使い方、政治活動、非営利団体への参加などもいってみれば「広義」の自己表現の手段だ。

重要なのは、表現するときの「中身」よりも、「姿勢」なのだと最近気づかせてくれた記事がある。

Lesson795  心で見る色彩

前回に引き続きまたも、山田ズーニーさんのコラムから。(どんだけ好きなんだw)

このコラムでは、自分のことを「女の子だと思ったことがない」Aさんの経験を紹介している。

Aさんは高校までは、「自分は女の子だと思ったことがない」という想いを、まわりの人に言うことなかった。しかし大学に入ってからは、「自分は女の子だと思ったことがない」ということを、まわりに伝えた上で人と関わるようにしたという。

そうした結果、これまでに感じたことがない世界が彩り、歓び深くなったという。そして今は、子どもたちに「うそをつかなくても生きていける」ことを伝えている活動をしてる。

その話に触発された、会社員の男性はワークショップの発表でこう語った

「きのうの方が、“うそをつかない”、と言っておられたので、自分も、うそをつかずに発表します。」

その瞬間、「消えていた電球に、ポッと灯りがつくように、男性の表情が明るくなった。」

とズーニーさんは思い返す。正直になる目的は、「世界に彩りを取り戻す」ためである。

大人になればなるほど、色を失う世界

正直であること。大人になればなるほど難しくなる。一般的にはそう言われている。しかし、実は「大人になればなるほど」が問題ではない。

問題は、学校や会社などの「同調圧力」のある組織にいるときこそ、正直筋は歪められるのではないか。つまり、多様な価値を尊重しない、できない組織だ。(組織といっててもそれは家庭から学校、会社、さらには街や国までも含むものだろう)そうして「正直筋」が究極まで弱められ、気付いたら自分にも虚構の「組織」側の価値がインストールされる。

こうして日常が色を失い始める。自分の中に宿っていた「価値」が気づいたら薄れていく。某大企業に勤めていた友人が、顧客にサービスを売るためには法を犯すこともザラといっていた。会社員の「非人間化」の究極の形態だ。

正直であることは評価されるのか?

「バカ正直に生きることなんて無理だし、そんな人は社会では評価されない」そんな通説を覆すインタビューをしていたのが、イケダハヤトさんだ。

優秀な人材とはどういう人物か。

ある企業の社長との対談。優秀な人材をどう見分けるかという話。タイトルだけみたら、よくある「コミュニケーション能力が高い人材」の話かと思う。しかし、この社長の優秀な人材の見分け方はちょっと違った。

「優秀な人材……それが一般的な答えになるかはわからないけど、うちの会社はシンプルに、3つの基準を使っているかな。創業時からそれは変わらないし、そこしか見てないね。」

「3つですか。」

「えぇ。まずは『素直さ』かな。これを見抜くのはけっこう難しいんだけれど……」

「どうやって判断します?」

「ひとつあるのは、その人が感動しやすいかどうか、かな。」

優秀な人材とはどういう人物か。|まだ東京で消耗してるの?

社長はそこに、「好奇心」「論理的でない人」を付け足す。いわゆる世間でいう「優秀な人材」とは全く真逆の回答だった。

そう、私たちは「子ども」でよかったのだ。実は最も優秀なのは、私たちが子どもであったときだったのだ。

なぜ日本では正直に生きられないのか?

どうも多くの日本の教育や企業文化は、正直に・誠実に生きていくのが難しい。

みんなと「違った」人であるよりも、「みんな」と同じで生きていくことのほうが楽だからだ。それは日本人は、根本的には多様性に「慣れていない」し、なれようともしないことがあるからだろう。

「仕事を早上がり」しようとしても、できないのは、みんながそうしないから。

「努力は報われる!」を信じるのは、それを学校で教わるから。

行き着く先は、磨り減り切った空虚な身体。

結果、「子ども」であることが逆説的に評価されるという奇妙な現象が起きていることが、「社長へのインタビュー」からわかる。スウェーデンで、Integrityが高い人が多いのはおそらく、個人の価値を歪曲する必要がないからだろう。定時で帰っても、人と違う発言・ふるまいをしても気にされない。むしろ尊重される。単純に、「違って」いても生きやすい社会なのだ。先行きが不透明で、世界中の多様な価値観が交錯し合うこんな社会において、持続可能性が高い社会は、どちらだろうか。

***

もう一つこれらの記事から学んだのは、自分を表現するときの心の置き方だ。表現するときの「中身」よりも、「姿勢」に意識を払おうということだ。

なぜなら、素でいることが自分の価値を最大限に引き出すことになるからだ。そしてそれは、よくいう自分の「大切なもの」や「価値観」というふわっとしたものを再認識させてくれる装置になりうるのだと

結果、それが「中身」を補充することになる。そういう往復作業をやりやすくしてくれる。

「正直筋」に敏感であること、そして鍛えること。Integrityへの理解が深まった気がする。

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