先日こんなつぶやきをしました。
結局人は、何かにすがりたいから会社やサロンに属するし、自分の師匠やアイドルを求めるのかな。すがる人は、すがる行為に満足してしまう感ある。アドバイスだけもらってその気になるとか。
けどすがりきっても、最後にたどり着くのは自分しかいないのだから逃げず、最初から自分にすがろうぜよ。— 両角達平 | Tatsuhei Morozumi (@tppay) November 29, 2017
きっかけは、今どハマりしている「インベスターZ 」4巻のとあるシーン。
主人公、財前の通う私立の中高一貫校「道塾」の創設者である藤田金七が就職活動について説く場面。
君の人生はそんなに価値が高いものかね?人の人生にたいした価値などない!
人の人生など言うなれば・・・雨粒・・・竈(かまど)の灰、微塵子(みじんこ)・・・その程度のもの。人生は尊く重いなど市民派を気取るエセ文化人の戯言だ。自分の人生に高い価値があるなどと思い込んでいるから道を見誤る。認められないと嘆きまわりに責任をなすりつける。人と言うのは皆・・・・なにかにすがって生きてゆくものなのだ。偉そうに高説を垂れている私は先祖の遺産にすがっている。まだ子供の君は親にすがっている。親は職場にすがる。企業は顧客にすがり。自治体は納税者にすがる。政治家は有権者にすがり、官僚は組織にすがる。研究者は出資先にすがる。冒険家は支援者にすがる。役者やミュージシャンは観客にすがり、文筆家は読者にすがる。
ここに自由はあると思うかね?どの立場にたってもそこに自由は見当たらないだろう。つまり・・・人はなにかにすがって生きてゆく限り。真の自由など手にすることはできないのだ。それなのに人は生まれながらにして。自由と平等は権利として得ていると思い込んでいる
さらに死ぬまで保障されると信じ込んでもいる。その誤解の上に立って人生の選択をする。典型的な例が大学生の就活というやつだ。|インベスターZ(4)
このようにして金七は、人生論を振りかざして就活を引き合いに出し、就活は会社にすがること。人の一生の価値は3億円で、就職するということはそれを一生預けるようなもの。自分の人生を預けることなので自分という資本を投資していることになる。だから企業はちゃんと選ぼうね、という話をします。
まあ終身雇用制度が前提になっていたりと突っ込みどころもありますが、ここで使っているキーワード「すがる」が、なんかいろいろしっくりきたんですよね。いいも悪いも。
先日も学会誌に寄稿するために論文を書いていたのですが、書いているときにふといつもお世話になっている教授に「ここまで仕上げて、後はチェック入れてもらってからにしよう」と、思ったんですよ。コメントをもらってブラッシュアップしてもらうことはいいことです。しかし、コメントをもらって「安心したい」という「逃げ」が自分の中にみえ隠れしていたことに気づいたんです。
頼れる先輩にアドバイスやコメントをもらうと、それで「やった気になる」ことってあると思うんです。本来だったらそのアドバイスを受けて更に発展させるものが、アドバイスだけで満足してしまう的な…。で、「すがって」しまって終わる。
責任を自分一人で受け止めないで意思決定を勝手にすがる対象に「シェア」して、責任すら求めてしまう弱さが人にはあるのかなと思ったのです。だから、すがる人を求めるのかなと。
けど、結局すがっても最後は自分しかいない。その意思決定は、親に先生に師匠に先輩に何と言われようと最後ケツをとるのは自分であると。
だったら最初から、すがる相手を求めないで「自分に」すがってしまった方が余計な遠回りをしないで済む。最初から「腹をくくる」ことができるので、行動に迷いがなくなると思いました。そう、ホームアローンのケビンの如く!
あとこれ、自分でつぶやいて思ったけど「すがる自分」を対象化できるなとも思いました。
何かっていうと、自分の中に「誰かにすがろうとして弱気になっている自分A」と、それを客観的にみて「なにすがろうとしてんだよ!」と鼓舞する自分Bの、2つの自分(AとB)がいることを想定する。そうすると、すがろうとしているAの存在が明るみになり、作業に手を抜くようになっている自分に気づくことができる。「それじゃいかん!」とBが鼓舞して、はっとするのです。
確か、そうやって自分中に「天使」と「悪魔」を想定して自分を客観視することは「スタンフォードの自分を変える教室」にも書いてありました。
そんなやる気論を発見したので、勝手にシェアさせていただきました。
そういうわけで、今日も最初から自分にすがって生きていきましょっ!