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ストックホルム郊外の若者の暴動について -スウェーデンのユースワークの日常と歴史に照らして

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さて今更と言う感じですが、世界中のメディアでも大きく報道されたストックホルムで5月に起きた若者の暴動について、スウェーデンのユースの現場を少しかじっていた者の視点から論じてみたいと思います。

この暴動については「スウェーデンの今」というブログのストックホルム郊外の暴動について(その1)、ストックホルム郊外の暴動について(その2)で詳細に書いていますのでこちらを参考にしてください。僕も基本的な見解は同じです。そのうえで、スウェーデンのユースセンターでのインターン、視察などで数十団体をインタビューして見聞きしたものの感想を書きます。

まず事件の原因については、様々なメディアが暴動前に起きた同地区フスビーで起きた警察による射殺事件としており、その背景として移民統合政策の失敗などが引き合いに出されている。それに乗じて「北欧神話の崩壊」「福祉社会の陰」などと報じられているが、僕はそこまで誇張した表現を使うべきではないと思う。

この規模の暴動は日常茶飯事であるというわけではないが、大都市の郊外では若者によるこのようないたずらともいえる事件は頻繁に起こっている。

ユースセンターの日常

昨年の夏にストックホルムの郊外のユースセンターでインターンシップをしていた、テンスタという地域は、暴動が起きたフスビー区から1キロ南西に向かったところにある地域で、いわゆる、移民コミュニティだ。こちらの記事でも触れたが、非スウェーデン人(外国人)の背景を持つ人の割合が 85.9%   (2007)で、失業率43.5% (2009)で移民の割合でみればフスビーよりも多い。 インターンシップの初日には、あまりにも若者達がこれまで僕が接してきた人たちと違いすぎて、正直圧倒されてしまった。夏だったのであまり人数こそ多くはなかったが、初めてくる日本人に対して、お手並み拝見と言わんばかりにつっこんでくる。「大麻欲しいか?」とからかってくるものもいれば、自転車で施設内を乗り回すものもいれば、今にも喧嘩しそうになっている若者もいた。(後日、フリースタイルラップをふっかけられてDragon AshのGrateful days を日本語で刻んでやったら「教えてくれ」と言われたことはここでは触れない) その日はたまたま、金曜日だということもあり地域のソーシャルワーカーと雇われた若者からなる「テンスタの安全」といわれるジャケットをきた夜回り隊とのミーティングがあった。この一週間で起こった事件などの警察による情報のシェアをし、重点的に見回る場所を議論する。そのときは、なにがあったか聞いたら「とくに大したことはなかったけど、バスの運転手への脅し幼稚園の放火があったらしいから、今夜はその辺りを見回る」と返事があった。 さらにその日の終わりに、ボスが教えてくれた事実にさらに萎縮した。このユースセンターはStockholm Stadmission というホームレスなどへの支援事業を中心とする団体が民間委託を昨年の冬に受けたばかりであった。それはある事件がきっかけとなっている。その半年前にユースワーカーとセンターに訪問していた若者との間でいざこざがあり、そのワーカーは後日その若者から家族を殺害すると脅迫をされた後、ユースセンターを放火したという。結果、センターは半焼し職員を総入れ替えせざるを得ない状況に陥り、民間団体が引き継ぐことになったのだ。だからスタッフも働き始めたばっかだったし、地域の若者とも新しく関係を作り始めている段階だと語っていた。 「これらの事実を踏まえて本当に働きたいなら明日来なさい」とインターン初日に言われ、夜は一睡もできないほど悩んだのは今では懐かしい記憶だ。(結局、後日重い足を引きずりながらいったのだが特にビビるようなことはその日はなく、続けることになった) それからは約一ヶ月という短い期間であったが、上記のようなことの連続の毎日であった。ちなみにこのセンターは現在もあまり状況はよくなっておらず、先日たまたま街中で出くわしたそのときの同僚曰く、また若者が職員を脅迫するという事件が起きてしまい、スタッフを一部替えなければいけない事態となってしまったらしい。 時と場所により程度の差異はあるものの、ユースセンターやその周辺では常にそんなことが起きている。

スウェーデンのユースセンターの歴史

しかし、そもそものスウェーデンのユースセンターの歴史に照らせば、若者の”非行”はいつも隣り合わせだ。スウェーデンのユースセンターは、もともとは思春期にエネルギーが有り余ってる若者たちのために「何か新しいことに打ち込めるための機会」を提供するミーティング・プレイス(出会いの場)として導入された。1970年代当時のユースセンターでは若者の飲酒などによる問題で活動の質の低下が目立った。当時、ユースセンターに若者をとどめておくことは、社会的な問題を防止する役割を持つと見られていた。その後、80年代には若者をセンターの運営にも関わってもらい自治の機能を高め、非行予防という色は薄まったことを付け加えておく。(Ungdomsstyrelsen, FOKUS 10より) インターン中にも、同僚に「ここはユースセンターだが、若者の犯罪の温床となることもある」と言われたことも思い出した。他の施設でもそれは同じだ。フリーシュフーセットというヨーロッパ最大級のユースセンターでさえも、非行青年の”天国”の場となり創始者のアンダーシュカールバーグも何度も批判の対象となった。1986年の夏、ストックホルムで起きた10代の若者の暴動を皮切りに、政府がフリーシュヒューセットに介入を求めるようになった際には、フリーシュヒューセットは全国規模のキャンペーン活動を実施し、非暴力に関するレクチャーを全国で展開した。 そのような若者による事件や暴動をあげればきりがない。今回のストックホルム郊外フスビーの暴動がユースセンターやユースワーカーとどのように関わりがあるかははっきりしてはいないが、非直接的にでも直接的にでも何かしら関係がないわけではないだろう。「スウェーデンの今」でも取り上げられていた、Megaphonenというフスビーにあるユースセンター内の壁にはそれを象徴するような記述が壁にある。 “A unified suburb can never be defeated,” reads Megafonen’s slogan しかしそれは、ユースセンターの使命ともいえるとも思う。ユースセンターとはそういうある種の若者に対する寛容と信頼がないと成り立たない場所ではなかろうか。

若者の可能性を信じて、情熱を捧げられる何かを見つけることはできないか常に探ること。一方で、非行行動などにも注意を常にする。その両者のバランスがとても大事。

これはインターンシップ中に上司にいわれた一言だが、まさにこの両者の間を行き来するのがユースセンターなのだ。非行の温床と言われていたユースセンターのあるテンスタからは、アダム・テンスタというヒップホップアーティストが生まれているし、同施設のボクシングジムからもワールドタイトルをとったボクサーもいる。”アイドル”という、一曲を披露してプロのアーティストからその場で審査をしてもらう番組を真似した地元お手製のバージョンもある。別の地域のユースセンターでも、地元出身のDJに来てもらってDJ講座を開催していた。若者の可能性を「不可能」にも「可能」にもする場所になりえる最前線なのだ。 何もアーティストだけでなく、ユースワーカーやその地域に住んでいて施設に訪問をしにくる大人にも、地域の大人としてロールモデルの役割が期待される。その大人たちとの関係資本を構築すること。そういうことをユースセンターはしている。

本当の解決策はなにか

似たように、スウェーデン南に位置するマルメの郊外、リンディンゲンという地域に位置する学校では一ヶ月に32回火災報知器が以前は鳴っていたというのだ。これはいたずらで火災報知器のボタンを押したというのではなく、実際の火事で鳴った回数だというのだから驚きだ。 「 しかし今は月に2回程度になった」と語るのは、この地域でエリア・コーディネーターをしているフィオナさんだ。6月の半ばにお世話になっている日本の教授とともに訪ね、この地域のレジリアンス(復興、回復力)についてのお話しを伺った。次回はそのインタビューを紹介し、火災報知器が一ヶ月に32回も鳴っていたゲットーがどのようにして、生まれ変わったのかについて書きたいと思います。

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