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日本の政治家が差別的な視察をしてしまう理由|北欧視察の視点からの問題提起

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東京の新宿・渋谷に、#TsubomiCafeという10代の女性向けのシェルターやシェアハウス、無料の夜カフェがあります。

一般社団法人Colaboさんが運営しており、代表の仁藤夢乃さんが自身の経験からこのような活動を実施されています。

そこで先日ある事件が起きました。Tsubomi Cafeの視察に訪れた国会議員の方々が問題行動を起こしたようです。なかにはセクハラをした議員もいました。

それに対して代表の仁藤さんが抗議文と要望書を以下のように公開しています。

私も抗議文を読ませていただきました。抗議文には視察時に起きていたことが具体的に書かれています。

現場訪問時の基本的な注意事項

私自身、ヨーロッパをはじめとする海外や国内の、子ども・若者支援や社会教育の現場に研究や仕事(インタビューや講演など)で訪問をさせていただく機会に恵まれているのですが、いろいろあり得ないことが起きていてショックでした。

「国会議員」や「男性」という権威性やそのマッチョリズムに無自覚な言動が、それによって苦しめられてきた人たちがいる現場に「土足」であがってしまい、現場を撹乱させて、挙げ句の果てにはセクハラまでするという。現場視察の最悪の事例です。

通常、現場への視察には以下の手続きをしていくことになります。

・訪問者同士で、訪問の目的、方法などの検討・最低でも1ヶ月(国内)〜2ヶ月前(海外)に訪問のアポ取り(大きな組織ほど決済には時間がかかります)
・訪問前に事前勉強をして質問事項などの検討・訪問者のリスト(名前、所属、連絡先)を作成して提出(公的機関などは事前に入場許可証を準備する必要がある)
・訪問時の注意事項などを先方に聞いておく(セカンドレイプや差別を避ける)
・用途を明らかにした上での写真撮影、音声録音、記録の可否の確認
・謝礼などの交渉

抗議文を読んでいただければわかりますが、このようなことが無視された現場訪問が起きてしまったのです。訪問した方々が、このような感覚がわからない状況にあるのは、日頃から特殊な環境に身が置かれているからなのでしょうか。それとも個人の価値観からなのでしょうか。

私自身も、国会議員の方々向けに仕事をすることになったときに、このような違和感があったことを思い出しました。

・突然の仕事の依頼と議員優先でのスケジュール調整
・当日遅れて来る議員、途中退出する議員
・講演料・交通費もなし
・SNSなどの報告で、議員が主語になっているとき(写真も活動も)
・メインの所属先を間違えられる
・「すごいですね」と褒められる

講演料はお金が発生すると厄介なことになるからまだしも、それ以外の態度は専門家のプライドを傷つけることになりかねません。国会議員の方々の事情を知っている人ならまだしも、多くの研究者や専門家はそうであるとは限りません。そもそもフェアな関係であるなら社会人としてこのような事は起こらないはずです。ひとつひとつのコミュニケーションをすることで、どのような感情を相手が抱きうるか、想像をしてみてください。

原田謙介さんも政治家の「上から目線視察」と問題提起しています。

受け入れる側も「国会議員の先生方が来られる!」と政治家を神格化することも、権威性づくりに貢献してしまいます。あくまでもフェアであるべしなのです。

差別はダメ!で終わりにしない「規範批判教育」を

「主権者教育の必要性」や「若者の政治参加を!」とか訴えながら、マッチョでハラスメントな行為をする人、自身の権威性やジェンダー観に無自覚な人は割といます。何かの催しでも、そのような配慮がない場もあります。そういう人にとっては、例えば「主権者教育」と「性教育」は別物となっているのかもしれませんが、それは「民主主義」の理解が、浅はかとしか言いようがありません。それは普段からその人がいる場が、部分的にしか民主的でないのかもしれません。

そういうことを考えるとスウェーデンで「規範批判教育(Norm-critical pedagogy)」が行われている理由がよくわかります。先日、翻訳をおえて公開している学校で政治を教える副教材である「政治について話そう!」でも、生徒会のハンドブックでも、「規範意識」についての言及があります。スウェーデンLGBT権利若者連盟(RFSL Ungdom)は、「Break the Norm!(規範をぶっこわせ) 」というテキストブックも出しています。(翻訳したいですね!)

自分の行動や態度が如何に他者に影響を与えるか、またそれらが根ざしてる規範意識は何かをメタ認知してもらう教育ですが、日本人の多くの大人にこれが必要と考えます。単に「差別はダメ!」という啓発ではダメなのです。

人はボーッと生きていくと、自分の趣味・嗜好が近い人とつるむようになり、その中で重視されている言葉や行動、そして規範に自動的に染まっていくことになります。どうであれ偏った見方が形成されてしまう可能性があるのです。故に、結果的に別のコミュニティに参加した時に、そのコミュニティにとって差別的な振舞いとなることがあるのです。(このプロセスに自覚的であるだけでも違います)これこそ、今回の視察事件で起きたことそのものでしょう。

もちろんすべての配慮が行き届いた完璧な場をつくることは容易ではありません。だからこそ私たち自身が、普段から学び続けて「バカの壁」をぶっこわし、関わる人や社会を広げていくしかないのです。議席や、場作りでジェンダーバランスをとることは、こういう理由で必要なのです。

これができない限り社会も、それを担う人も更新されていくことはないでしょう。

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