海外では海外では〜はうざい?「海外出羽守」の発信者も批判者も気をつけたいこと。

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海外出羽守とは?

海外出羽守(かいがいでわのかみ)とは、「〜の国では」と何かにつけて海外の事例を引き合いに出して語る人のことです。

ぼく自身、ヨーロッパに住んで学問的にも、時にはただの雑感としても多くの海外事例を紹介してきました。しかし時に、紹介の仕方を丁寧にやらないとそれは根無し草の安全な所からの「高みの見物」のような印象を与えてしまうことがあります。そのような発言を批判して、「アンチ海外出羽」のような批判者がネットの言論空間で多くいることも事実です。

改めて「海外出羽守」の発信者も、さらにその批判者も気をつけたいことをまとめます。

無責任な海外出羽守にはなりたくない

北欧研究をしている身としての、ぼくのスタンスは「無責任な海外の出羽守にはなりたくない」で、これはスウェーデンに渡る前からずっと思っていたことです。何せもともとスウェーデンのことはとくに国としてたいして興味があったわけでもなく、それよりか若者支援の活動で忙しかったので、北欧に渡るとしても「実践に活かせることは何か?」ということしか考えていませんでしたから。

なので、「マクロ」な話や海外の事例を聞いているときはこう思っていました。(以下、4年前のツイート)

しかし、実際に海外にいくとそういう人に会うんです。留学生も含めて、そういう人に限って「日本では〜!」と主語を大きくする。飲み会の席の話なら別にいいんですけどね。。。

なぜ海外出羽守と認定されたのか?

今回この記事を書こうと思ったのは、そんな僕が「海外出羽守」として認定されたからです。きっかけはこちらのニュージーランド在住のマーディーさんに寄せられた質問。

こちらの質問の以下の部分。

残念なことに、他の海外在住者の中には、自分の在住国を持ち上げて日本をディスることでしか存在感を示せない人も多いような気がします。特にヨーロッパ、スウェーデンやドイツの在住者にその傾向が顕著です。例えば、スウェーデンの若者は立派だ、とか、ドイツの環境政策はすばらしい、とか。海外に住んでまで、ツイートでわざわざ日本を批判することに力を注ぐのは、本末転倒です。

|Peing 

明らかにぼくのことを指していますね…。そもそもスウェーデンの若者研究やっている人少ないので。

というわけで以下、僕からの怒涛の回答です。

(以下、このツイートからの引用ですが、読みやすさを考えてテキストだけここに貼りつけ&編集してお届けします)

では毎回「海外事例は、背景・文脈が異なるので簡単な導入はできない」をツイートすればいいのでしょうか?そうであるなら、海外に限らず国内の事例紹介でさえも前置きがいちいち長くなります。一方で発信者側は常にこれを意識して複眼的な視点でコンテンツを練る必要はあります。

極端な「海外出羽守」もそれを一面的に切り取って批判する人も、どちらも「わかりやすさ」に逃げてはいけません。白黒ハッキリしないのが世の常だからです。

関連記事:「アンチ」を乗り越え「グレー」であることを恐れない。情報がジャンク化した時代の民主主義

しかし、Twitterのつぶやきは長文・曖昧さを嫌うのでこれがやりにくいのです。これはメディア(媒体)の性質に規定されて言論が極端に表出していることの表れです。だから、ツイート自体は「出羽守』っぽくても、ツイートの真意はそんな「極端」ではなく、むしろ何かしらの「想い」(良いも悪いも)があるんだろうなと察して読解する必要があるでしょう。本当は日本好きでつぶやいてるのかもしれませんし。

海外事例を紹介する発信者が気をつけたいこと

ぼく自身、比較研究していて思うことは色々あります。最近は統計的な手法で幸福度や教育などの良し悪しを計る大規模な国際調査もできるようになりました。しかし、ランキング化して世界をフラットにすることで、歴史や文化・背景などの文脈を見えづらくしてしまう可能性もあります。(だから最近はあえて、文脈を読み解く質的(縦の)研究がいいなと、個人的には思っていますが研究者としては両方やらないとですね。)

海外事例紹介をツイートだけで紹介するとすぐに「出羽守」とみられる。では、論文としてまとめると今度は、全く読まれなくなります。科学的に「正確」ではあるけども「読みやすさ」がなくなるからです。だから、こちらの記事で書いたスロージャーナリズムの性格と似ていますが、ブログくらいのメディアが、丁度いいのではないかと思ったりもしています。

そして発信する際にはいくつか気をつけるべしポイントがあります。日記の中で「こんなことあったよ〜」と紹介するのならまだしも、「日本」を主語として海外事例の紹介をする際は、日本の似た事例や背景・文脈の理解と言及も必要です。それなしの海外事例の紹介は、「日本」に参考にしにくいし、読者はモヤっとするでしょう。(それを目的としいない文章ならこの限りではない)

しかし、海外事例の中には日本には全く存在しない事例もあります。その場合、「なぜその国にあって日本にないのか?と掘り下げると良いです。そうすると必然的に日本、海外の国の背景・文脈への理解が深まり、普通に良いコンテンツになるからです。このような姿勢なら、「北欧の事例の方が常に良し」という北欧礼賛主義にも、なりづらくなるのではないでしょうか。

ついでにいただいた質問に関していえば、そもそも

というぼくの事情を知っていたら、あのような質問はなかったのではないかと思います。正直こんなことばかりなら、ネットで発信することも控えればいいのでは?と思うかもしれませんが、それでも海外事例を発信することが大事だと思うのはこういう理由からです。

例えば、ブログがきっかけでスウェーデンの若者の投票率の高さが高い理由が知りたいと、NPOから国会議員まで多くの方にこれまで声をかけて頂き、講演をしたり、機関紙に寄稿する機会を頂くことになりました。さらに、意識的に発信してきた若者政策やユースワークというキーワードも、最近では以前よりも認知されてきたように思います。愛知県新城市に至っては、スウェーデンの若者政策を意識して、地域で若者議会の取り組みを実施しています。

そもそも「比較をする」とは何か?

海外事例を紹介し、その事例を「読解」する際は、「読書と社会科学」を著した内田義彦が、

本でモノが読めるように、そのように本を読む。それが「本を読む」ということの本当の意味です

というように、海外の事例(本)で「日本の(モノ)」が読めるようになろう!という姿勢が出発点となるのではないでしょうか。

しかし、それである事例を知ってその背景である国の文化や歴史、社会制度を知れば知るほど身動きができなくなることもあります。だからといって、海外事例を引き合いに出すことを止める必要はありません。「日本で単純に導入なんてできないか‥」という葛藤を常に背負い続けることは、比較研究者の使命なのかもしれません。その事例に衝撃をうけた、その個別化されたストーリー自体は本物であるからですし、そのようにしてこれまで歴史は変わってきたからです。

そもそも人間が「比較をする」というのは、自然な考察なのです。こちらの論文によると、社会科学の比較研究の起源については,アリストテレスの行った「ギリシア都市国家憲法に関する比較研究」に求めている学者があるほど長い歴史がある、ということです。

同論文の筆者の朴氏は「比較の意味」についてドガンのこの文章を引用しています。

「ある人間や観念,あるいは物事を,他の人間や観念,物事と関係づけて評価することほど自然なことはなし。知るためには基準となる目印が必要だからである・・…・比較は最も良質な理論を育む土壌ともなりうる…・・・それは 社会科学が真に科学となりうるための手段でもある。デカル卜の「われ思う,故にわれ在り 」 という言葉をもじっていえば「われ比較す,故にわれ思う 」ということができるのであろう」(Dogan and Pelassy /桜井陽二訳,1983: 1 -4 」

「考える」ことほどに、「比較する」というのがいかに自然な考察なのかということを述べています。何か新しい事柄に出会った時に、既に知っていることと私たちは無意識に「比較」する。日本で育ってきて、日本のことがわかる。だから「自動的に」比較する。

それで見えてくる、新しい見方をシェアしたいから、ツイートしちゃうんです。だから時に、「海外出羽守」になってしまうのです。そんな時には、上でまとめたことを心がけるようにしてみましょう。

以上、海外事例を引き合いに出す時に、発信者も批判者も気をつけたいことをまとめてみました。

追記

海外に住んだことのある人はむしろこの境地に達している人が多いこともまた事実でしょう。

自分がどこに位置しているのかを相対化することができるいい表現だったので、張らせていただきました。

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