なぜ、ウェブメディアやSNSの「情報」だけで、わかりやすい正論や「アンチ」に、「いいね!」だけで応えてしまうようになってしまったのか。賛成か反対か、白か黒か、二元論への批判は何も変えてこなかった。
話を聞いていると正論派もアンチ派も、オフラインの生の実態も特に知ることなしに、論を展開しているのではと思う。もはや「印象」だけであれこれ説いている部分があるのでは..
こうなってしまったのは何故か?
・情報がファストフードのように量産されて消化されることなしに(タイムラインに)「流される」ようになってしまったこと
・誰もが断定的な主張がたった「140字」でできるようになり
・それに対して[いいね]や、リツイートでアテンションを(通知で)「感じられる」ようになったこと
そこに閉塞で不確実な時代状況が重なる。
−情報よりも「情感」を
そんな言葉を教えてくれたのは、文筆家の米田さんだが、いいねする前に立ち止まって「情感」を得るようにして、投稿の「背景」を読むことがますます求められていると思う。
炎上の火元はどこか?
そこで叩かれている「敵」は、仮想にすぎないか。
SNSの印象だけで決めてないか?
果たして、賛成しているあなたのその不満は本当にその「敵」に向けられるべきなのか?
もっと一緒に考えるべき諸悪の根源があるのではないか?
批判対象の個別具体的な事情を知ることなしに、単純化し「わかりやすい敵」を作って「こちら側」の団結を強めることになっていないか?
グローバルシティズンシップを提唱しているネル ノディング(Nel Noddings) はいう。
”We should not need a common enemy to draw us together”
(団結するという目的のために共通の敵を作るべきではない)
分断社会を乗り越える市民性とは何か。日本シティズンシップ教育フォーラムの連載でそんな大きなテーマを論考しているが、そこにわかりやすい答えはない。欧米社会にいて「Democracy in crisis (民主主義の危機)」が叫ばれて久しいが、その諸悪の根源に今こそ向き合う必要がある。同フォーラムのシンポジウムで、民主主義を育むとある小学校の事例紹介を聞く中で、
「異なる他者とのなかで『妥協点』ではなく『浮揚点』を探ること」
という言葉を持ち帰った。その言葉を借りるのであれば、浮揚点が浮かび上がる民主主義をどう作っていくかということが、今まさに問われている。
英国EU離脱、トランプ政権に投じた有権者層に、暴動で「反発」するのではなく、まずはその背景への理解に努めることをして欲しい。アイドルでも、ブログでも、NPOの取り組みでも部分的にはアンチでも、その人やブログ、取り組みを自体は尊重してほしい。ウェブ上の文字・投稿だけで見えないオーガニックなものに触れることをまずして欲しい。
そして、白黒はっきりしなくていい。グレーであることを恐れないで欲しい。
教育の哲学―ソクラテスから“ケアリング”まで (SEKAISHISO SEMINAR)
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ネル ノディングス 世界思想社 2006-09
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