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出身国の代わりに出身地域を尋ねよう|グローバルな時代にどこで子どもを育てるか悩んでいた友人と考えたこと

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先日、地元が同じ旧友とひさびさに会って身の上話しをしていたときのこと。

その旧友は都内の有名企業で働いており、これから海外に単身赴任をする予定です。今後のことを聞くと、子どもがいるのでもしかしたら地元に戻るかもしれないとのことでした。

ただ、地元に帰ったら今と同じ会社で務めるような同じ生活はできないので、起業する新しい生計手段を考えないといけないとのこと。

それよりも子どもをどこで育てたら良いのか?ということに悩んでいるとのことでした。

田舎で育てるか、東京で育てるか

選択肢は、地元の長野に帰って育てるか東京で育てるかのどちらかです。

東京で育てるのならこれまで通り今の会社で働き続けて生活ができます。しかし、彼は地元で育てることが諦められません。

なぜなら「地元で育たないと失われる」何かがあるからだと言っていました。

例えば、

・子どもが東京という大都市ではないところで育ったという感覚

・「実家に帰る」という体験

ということです。

子どもが地元の長野で育たなかったら、孫が『実家に帰る』ということはほぼないんじゃないかな?

確かにそうだなとうなづきました。

加えて長男なので実家の跡継ぎの問題もある。数世代先のことも考えて悩んでいる様子にぼくもずいぶん考えさせられました。

そんな話しを聞いて、先日観たあるTEDの動画を引き合いに出し、そもそも「地元で育つ」という感覚って何なんだろうねとぼくは話し始めました。

このTEDのプレゼンターはタイエ・セラシ。彼女の主張は「どこの国から来ましたか?(Where are you from?)」よりも「地元はどこですか?(Where are you a local?”)」と聞くことの提案です。

それは彼女自身の複雑な育ちが影響を与えています。彼女はイギリスで生まれ、アメリカで育ちました。イギリスで生まれた母は ナイジェリアで育ち、現在はガーナに住んでいるとのこと。父はイギリス領だったゴールドコーストで生まれ、ガーナで育ちサウジアラビアに30年以上住んでいるのです。子どものセシルは、故郷を2つ持つのです。そんな「複雑な」バックグラウンドを持つこともあり、あちこちで開かれる彼女の講演会では毎回、紹介の仕方が異なります。「アメリカとイギリスで育った彼女は〜」と紹介される度に「何か違う」と感じるのです。

「どこからきましたか?」という質問のおかしさ

そんな違和感を抱え、あるときひょんなことから彼女は「どこの国からきましたか?」という質問のおかしさの正体を暴きます。

そもそも「国」は人間が創り出した概念に過ぎない。実体のある人間が概念である「国」から生まれることなどはありえない。「チェコスロバキア」は2つの国に分かれ(チェコとスロバキア)、「東ティモール」だって最近できた「国」。

「国」という概念は400年前にできた概念に過ぎず、歴史も文化も実体のあるものですが「国」は所詮、創られた空想の考え方なのです。

何が「地元」をつくりあげるか?

このプレゼンテーションの後半で彼女は、では国ではなくて何がその人が「自分はどこからきた」「自分はどこの人だ」「自分はどこで育った」という「地元感覚」を作り上げるのかを話しています。※プレゼンでは「地域」と訳していますがぼくは「地元」のほうがしっくりきます。

人がどこを「地元」と感じるかは、3つのRによる。それは習慣(rituals)、人間関係(relationships)、制約(restriction)、のイニシャルをとった3つのR。

日々の自分の決まりきったついついやってしまう「習慣」はどこで身についているでしょうか。方言だったり、毎日のお祈り、顔なじみの人がいる町はどこでしょうか。ぼくだったら、日本語、地元長野で身についた振る舞いや言動、スウェーデンのハグする習慣などでしょうか。

2つめは、人間関係のR。日々感情を共にする人間関係はどこにあるのかが、人の「地元」感覚を規定する。もちろん自分が育った地元や、母の実家もそうだけど、留学して数年過ごしたあのヨーロッパの街にだって、学部時代を過ごした大学のある静岡にだって色んな感情を共にした友達がいる。

3つめの「制約」は、この流れだとちょっとネガティブなもの。 どこに住むことができるか、どこの国のパスポートを持っているかといったものが「制約」。

人種差別政策によって住む場所が決められたり、パスポートは1つしか持てないなどの出自を「制約」しているもの。「どこの国から来ましたか?」と空港で聞かれたら、とりあえずパスポートの国を答えますが、本当は別の国を地元だと感じる(習慣・人間関係)人だっています。

結局どこで育てるのが良いとかあるのだろうか

グローバルなこんな時代には、家族一同で海外に赴任して生活することになるのもあり得ないことはないでしょう。逆にもしかしたら、ずっと長野かもしれないし東京かもしれない。かたや日本の別の県かもしれないし、予測不能です。

けど、このセシルの動画をみて思ったのは、結局どこへいこうとどこで育とうが、誰だってその一時でもいたその場所を後で振り返ったときに「地元」と感じる可能性があるのだということです。

そこに感情をともにした家族や友人、共通の体験をした人がいて長く過ごせば過ごすほど、よりその「地元感」は強くなる。それがその人の個性になるし、アイデンティティの一部を成す。

残念ながら友人の子どもをどこで育てれば良いかということの明確な答えはでませんでした。しかし、どこであろうがやっぱりその地の文化や風習にどっぷり浸かり、一緒に感情を通わす経験をいっぱいすることの大切さが、改めてわかりました。

これからその子がどこを「地元」と感じるか、今から楽しみです。

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