By: Kārlis Dambrāns – CC BY 2.0
去る10月、ノーベル経済学賞の受賞者が発表されました。今年は、シカゴ大学の行動経済学者のリチャード・セイラー教授。
リチャード・セイラーは、行動経済学を切り開いたシカゴ大学教授の経済学者。ノーベル経済学賞選考委員会の選考理由は、
「個人は完全に合理的には行動できないこと、社会的な背景を踏まえ選択すること、そして自分自身をコントロールできないことなど、人間の持つ特徴が個人の経済的な決定や市場にどのように影響を与えているかを示した」|NHK
からです。
そして行動経済学者として経済学と心理学の橋渡しをしたことが最も大きな貢献だったということです。以下の本も訳されています。
そのニュースを聞いて、「もしかして..」と思い確認したらやはりそうでした。
僕がお気に入りのポッドキャスト「Freakeconomic(ヤバイ経済学)」で教授の受賞を祝福していました。それもそのはずで、このラジオのホストは、シカゴ大学の経済学の教授のスティーヴン・D・レヴィットと、ジャーナリストでありライターのスティーヴン・ダブナーで、2人とも経済学屋さんであり、シカゴ大学のつながりでセイラー教授とも仲がいいみたいです。
今回は、 ヤバイ経済学の過去記事を漁っていて発見したイラー教授も出演していたこちらの収録を紹介します。
セイラー教授がどんな偉大な貢献をしたのかが、よくわかる素敵なエピソードでした。
経済学者が唱えるように私たちは行動すべきか?
これが今回紹介する収録のタイトルです。このエピソードでは、「コスパ」しか考えない超経済的な行動することは可能なのか?が、主なテーマです。ここでは経済的な効率性しか考えない仮想の人物を設定してこれを「ホモ・エコノミクス(ホモサピエンスをもじって)」または「イーコン(econs)」と呼んでいます。イーコンであることは実際に可能で、それが本当に幸せをもたらすのかについて、実験を行いながら議論しています。そして時たま、完全なる経済合理主義者「イーコン」になるべく、ヤバイ経済学のラジオプロデューサーであるグレッグが、今回ノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラー教授からアドバイスをもらっているのです。
例えばこんな実験をします。
お金を払ったら満員電車で席を譲ってくれる人はいるのか?
グレッグはニューヨークの混んでいて地下鉄で、座っている乗客に「いくら払えば席を譲ってもらえるか?」と質問しまくります。経済合理主義的に考えれば、座席に見合った値段を提示してもらい、お金を渡せば席を「売買」するやり取りは成立するはずです。
ところがほとんどの人が、価格を言い渡すも席をゆずることはありませんでした。なぜ労力に見合う価格を提示していても席を譲らないのでしょうか?合理的ではありませんよね。ここでグレッグはある社会的規範があることに気づきます。
1つは、電車の座席は売り物ではないと考えられている規範。2つ目は、自分がもし年寄りだったり怪我をしていたり、妊娠をしていたら席を譲った方が良いという規範。
ではこのような社会的規範に対して、イーコンはどう振る舞うのか?
セイラー教授は、本物のイーコンは社会的な規範など気にしない。だったら杖を持ってたらいいんじゃない?そうすれば譲ってくれる人がいるだろうよとアドバイス。笑
そう、イーコンは意地悪なのです。自己の利益を最大限にするためにはあらゆる手段を取ることに躊躇しません。とんでもない自己中なんです。
経済合理主義者になるための3つの条件
では、なぜ人はこのような経済的な合理主義者であるイーコンに憧れるのか。それは、セイラー教授によると人は「制約付き最適化( constrained optimization =限られた予算の下で最良のものを選択すること)」に憧れるからであると。
つまり自分を幸せにするために、貯蓄したり投資したり利口な消費をする、といった「最良の意思決定」ができるようになりたいから。イーコンはそのために無駄な飲み会もしないし、もちろん2日酔いなんてしない。目標のために最適解を導き出すことに秀ているから。
そしてイーコンは、「埋没費用(sunk cost:既に回収することが不可能な費用)」を気にしない。チケット代3000円を払って観た映画が、開始10分でつまらないと感じても、もうチケット代もその10分も、回収できませんよね。それが埋没費用です。普通の人間はこれを気にするから無駄と分かりながらもつまらない映画を見続けて、無駄な時間を過ごすのです。これを全く気にしないのがイーコンです。イーコンは、無駄だとわかったらすぐにその時間を切り捨てて、もっと生産的なことに時間を充てます。
この後、収録ではグレッグがこれらのイーコン完全体として振舞って、何とデートしている女性に告白をすることに(!?)。セイラー教授からは告白することによって失われる機会(本当にその女性でいいのか?元カノの方がいいのではないか?独身より幸せになれるのか?)などを考慮することをアドバイスされる。なぜならイーコンは常に機会費用(opporunity cost)を考慮して、最適解を導き出すから。
そしてグレッグは、イーコンらしく振る舞うために最終的にはその女性と一緒に、費用、利益、そして2人の将来性をスプレッドシートを開いて計算して告白することにしたのですw
しかもエンパイアステートビルで。結果は、ぜひ収録を聞いてみてください。
なぜ人は、路上ギターに投げ銭するのか?
収録後半では、なぜ人は路上パフォーマーに投げ銭するのか、そしてなぜ人は選挙で投票をするのかについて議論しています。自己中心的な経済合理主義者であるイーコン的には、路上パフォーマンスで投げ銭するなんてありえない。なぜって、公の場で演奏している路上パフォーマンスは、たまたま通りすがった時に「耳にした」だけであって、そのパフォーマンスにお金を払って見に来ているわけではない。支払いも求められていない。よってイーコンは投げ銭をしない。
選挙投票も同じで、投票したからといってそれが自分に(少なくとも直接的に経済的に)何か影響を与えることが目に見えていない。これは多くの人が実際に感じていることだし、グレッグが実際に街中で街頭インタビューをしている時もそう答える人はいた。それにお金をもらえるわけではないしね。
しかし、全ての人がそう考えるわけではない。中には、
「アメリカ人として投票は義務だ」
「なぜ投票したかって?投票は重要だからだ。市民としての責任であるし、コミュニティはよいい学校や教師を必要としている」
と街頭インタビューで答える人もいました。
Mancur Olsonという経済学者は1965年に出版した本「集団行動のロジック」の中で、イーコンのモデルを政治学に適用しました。彼は、集団による政治的な活動も路上パフォーマンスもどちらも「公益」であると主張します。なぜなら、政治的な活動に参加しない人も排除することができないように、路上パフーォマンスも通りすがりの聞いている人を排除することはできないから、であると。
しかし現実世界では、そんなことをする人はほとんどいないし路上パフォーマンスに投げ銭する人もいれば、寄付をする人だって、ボランティアする人だって、ヒッチハイクで人を乗せてくれる人もいる。まさに僕の友人がヨーロッパの旅中に路上ギターでこれだけ稼いだように。
世界は「合理的な愚か者」で溢れている。
世の中は、自己中心的な人ばかりではないのです。
では、なぜ経済学はこのような視点を失ってしまったのか?
セイラー教授:イーコンのような超合理主義者が常に経済学で想定されていたわけではない。アダムスミスもそうだが、第二次世界大戦までの経済学者は「人」をイーコンのように扱うのではなく、本物の人としてみなしていた。
世の中に役に立つように貢献しようとする人もいるように、現実の世界は様々な人で入り混じっている。ただ乗りする人もいれば、こうやって手を貸してくれる人もいるということだ。
経済学者のアマルティア・センは、そういう人を『合理的な愚か者」と称した。彼らは合理的な方法を知っているけども、愚か者である。何故なら、もしすべての人がそのような行動をとったら、世界は今ほど良い場所にはなっていないことを自覚していないから愚か者なのだ、と
数年前に流行ったアイスバケツ・チャレンジなんてまさに「愚か者」の真骨頂ですよね、イーコンからすると。しかし、そういう「愚かな行為」を人はする。
一歩踏み出すためのもう一つの条件が揃うと、人は行動に出るという。セイラー教授はこれを「条件付き協働者(conditional cooperators)」という用語で裏付ける。
セイラー教授:路上パフォーマーに投げ銭をする時ってちょっと、勇気が必要ですよね?なぜって投げ銭する時「たった1人の人」にみんななりたくないから。だから頭のいい路上パフォーマーは、あらかじめ帽子の中にお金を入れておいて、あたかも他の人が投げ銭してくれているようにみせている。
確かに、日本で路上パフォーマーに投げ銭するのってちょっとハードル高いけど、神社のお賽銭はしますもんね。それは社会的な規範があるからでしょうけど、それでも「自分だけ」という感じはありませんし。
この辺り、上述した友人のギタリストも同じことを言っていました。
合理主義者が、投票をするとき
グレッグはこのセイラー教授の「条件付き協働者」の考え方は、路上パフォーマーに投げ銭する行為、大義を持ったボランティア活動をする理由を説明するのに十分な理論だといいます。
そして、これが投票するという行為に合理的な根拠を与えると、ブライアン・カプラン教授(ジョージメイソン大学)は指摘します。
(行動経済学視点を盛り込んだ新しいイーコンとしての)「ホモエコノミクス 2.0」は、まっとうな候補者が揃った時には投票するだろう。そのためには、候補者同士が完全に異なる必要がある。ホモエコノミクスらは、どちらの候補者が良いか真剣に検討するし、その検討にその他大勢の人は大きく影響を受ける。そして接戦になる。そうなったらイーコンは投票するだろう。
***
人は、合理的な判断をしないで「誤った」行動をする。若かりし頃、セイラー教授が大学で教え始めた時に気づいたことの一つが、人は必ずしも合理的な判断をしない生き物であるということ。
そういう「合理的ではない」人間のおかしな行動を、リストにして書き出しまくって、なぜ人はそのような行動をするのか研究をしていたら、40年後に行動経済学ができあがったというのです。それだけ経済学が、本物の人を現実でみないで理論に傾倒して「人間性」を失った時があったからこそ、そのカウンターとして、行動経済学が主張されてきたのでしょう。
最後にセイラー教授は、こう締めくくる。
今から50年後、行動経済学が消滅して、経済学がかつてのように「行動」的になってくれたらいいな
イーコン的な選挙が捨象するもの
いかがだったでしょうか。
ぼくは経済学をやっていたわけではありませんが、そんな初心者にも分かりやすい内容のポッドキャストでした。イーコンの実験も面白かったですし、行動経済学的な考え方というものがよくわかっただけでなく、行動経済学がどういう背景で生まれてきて何を主張してきたのかもよくわかりました。セイラー教授、偉大なりです。
折しも、日本では選挙を来週に控えており、駅前では候補者が最後の主張を訴えています。あれも路上パフォーマーと同じような「公共に資する路上パフォーマンス」なのかと思うと、確かに投票所に足を運ぼうかと思うわけですが、だからと言って今の政治の状況で「自分が参加したことによって、社会が変えられる」と思えるかどうかはまた別の話です。
選挙が残酷なのは、選挙戦略で勝つためには浮動票が多い地域を優先して応援演説をしたりと、とてもイーコン的な側面があることです。選挙が終われば投票率が出て、思った以上に投票率が伸びていなくて「何であんなに盛り上がっていたのに…」「この人たちが投票すればあの政党が勝っていたのに」と落胆する人もいるでしょう。
しかし、僕らが本当に向き合うべきはこの数字に出てこなかった、生の人間なのかなと。それこそ行動経済学がアドボケートする、本物の人を見ること。昨年は、ブレクジット、ドナルド・トランプ誕生と欧米の政治が激動した年でしたが、どちらの選挙でも投票率はスウェーデンほど高くはなく、むしろ様々な局面において経済・社会的な分断がますます加速してきています。日本も大局的には同様の文脈の中にあるでしょう。最近友人から借りた『ワークシフト』いう本では、さらなる都市のメガポリス化、新たな貧困層の表出がこれからさらに起こることが予言されています。
大事なのは、選挙以外の場面で社会に参画できるようにしていくことですし、選挙投票しない層と向き合うことです。イーコン的な教育アプローチがうまくいっていたら苦労してないはずです。若者政策やユースワークは、そういう意味で偏差値の高い私立高校で限定的に展開されている「主権者教育」よりも射程は広いし、意義深いものであります。しかしまだまだ領域分断的であることは否めないでしょう。
そして選挙に際しては、一人一人の個人を「1票」としてみなすのではなく、(選挙投票するかしないか関係なく)人として向き合うこと、それがセイラー教授からの教えなのかなと思いました。