なぜ日本の教育は「参加型」ではないのか?

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先日、ある本の一部をTwitterに投稿しました。

出典はこちらです Stefano Bartolini の 幸せのマニフェスト: 消費社会から関係の豊かな社会

この本で紹介していたこの表は、Gaël Brulé, Ruut Veenhoven のParticipatory Teaching and Happiness in Developed Nationsという論文に掲載されいているものです。

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参加型教育とは?

参加型教育とはグループワークなどの生徒同士の協働が多い教育です。参加型学習ともいわれ、学習している本人が学習の過程に、参加することを促す形態のことだといわれます。これを「水平型」ともいいます。

反対の「垂直型」の教育とは従来のように教師が講義をして、生徒に質問を求め生徒がノートをとったり、教科書を読んだりするタイプの教育です。トップダウン型ですね。

この水平型(参加型)と垂直型(トップダウン型)の教育を軸にして参加型教育指数(IPT)に落とし込み、先進国間でどのような偏りがあるかを調べ、その結果をランク付けしたのが先ほどの画像です。なお、参加型教育指数に使用したデータは、Civic Education Study (CES)とTIMSSの調査から抽出したものだということです。

その結果が、最初に紹介したこちらの表になります。


参加型教育ランキング

日本はとても低く、スウェーデンはとても高いことがわかります。

世界各地の参加型教育の様子

この結果に様々な声が寄せられました。

賛否両論で、実際に海外で体験した参加型教育を寄せてくれた人もいました。

もちろんここには、ある程度のバイアスもあるでしょうし、一般化はできませんがそれでも、ここまで多く声が上がってくることは興味深いことです。スイスでは、握手するんですね。

これを踏まえて、僕自身も思ったことがあったのでまとめてみます。

参加型教育がいつも良いわけではない

まず参加型の教育(水平型)の方が、反対のトップダウン型の垂直型の教育よりも絶対に良いというわけではないということはあげておきます。スポーツとか訓練やビジネスシーンにおいては、トップダウン型がうまく機能する場面はまだまだ多いことは想像に難くないはずです。

「参加」にかんする文献を紐解くと、参加にも積極的な参加と受動的な参加(会員になっているだけ)とか、有償か無償かとか、制度化されているかとか、色々な形態があることがわかります。そもそもコミュニケーションが、水平型と垂直型に明確に別れることがずっと続くことってってほぼないですよね。偏りはあるでしょうが、常に流動的なものです。

なぜ日本の教育は参加型ではないのか?

日本の教育現場が、垂直型に寄っているのは、試験偏重型の教育が多いことはよくいわれることです。

雑感ですが最近思うのは、もしかすると日本ではオーラル(口語)よりもライティング(書き)を基本としたコミュニケーションが深く根付いているからでは?なんて思ったりしています。大学の授業も学生の発言は少ないですが、感想文やレポートはすごい長かったり質が良かったりすることってよくあります。

それがよく表れているのが英語学習で、日本人はスペルも文法もおさえているので英作文はできるけど、スピーキングが苦手な人が多いですよね。海外だと英語だと英作文が最もハードルが高いと認識されていることが多いのにもかかわらずです。日本人は昔から「読み書き」のコミュニケーションの中で育ってきたのかもしれません。

なぜフランスの授業は非参加型?

ランキングに戻ると、フランスが意外にも垂直型のコミュニケーションに偏っていることが意外でした。

フランスでは、国家試験(バカロレア)で哲学が課さられるそうです。
参考記事

フランスの哲学の試験が難しすぎる。高校生は受験でこんな問題を解く!
多くの哲学者を輩出したフランスでは伝統的に哲学を学ぶことを重要視しています。理系文系問わず、高校では哲学の授業は受けなければならず、バカロレアでも哲学の試験は必須。バカロレアの試験は、高校生がこんな問題を解くのかとびっくりするほど、難しいものです。

ある方に、哲学の授業はどうしても教師からの一方向的なものになるのではないか?という指摘をいただきました。Twitter上でも他にもこんな意見をいただきました。

なるほどです。

やはり授業の特性上、そうならざるを得ないのかな。

すると「バカロレア幸福論」の著者、坂本さんからもコメントをいただきました。

詳しくは著書を参照する必要がありますが、高校最終学年の哲学の授業は単なる知識伝達ではなく、水平的な授業がされていることが期待できそうです。それでもやはり哲学というその科目の性質上、垂直型にならざるを得ないのかもしれません。

参加型教育の良し悪し

参加型教育は、コミュニケーションが「1→多数」という一方向なものから「多数↔︎多数」になるので、アイディアの交錯が俊敏で、結果的に場が創造的になることもあるのでしょうが、それはその場にいる人が「安心して発言できる場」となっていることが大前提です。人格を否定されないし、話を互いに聴きあえる場ということです。

「1→多数」という「銀行型教育」の現場では、預金のように預けられた知識を習得し、必要な時に活用(引き落し)をするという生徒像が想定されます。そこでは、生徒の主体性も人格も必要とされません。日本人の普通の若者が海外の教育現場で面食らうのは、そんな教育の中ですっかり「銀行口座」と化したからかもしれません。

この銀行型教育が機能する時代はかつての「組織」が重視される時代です。規律こそ全てだった戦時中の軍隊はもちろん、大量生産・大量消費の右肩上がりにの経済成長期もまた、所得倍増を目指して「護送船団方式」的にみんなで、隊列をなして歩みを進めいていたのかもしれない。そんな「組織」の時代から「個」の時代になったのが今日です。

SDGsや市民社会の分野では、ワークショップやファシリテーションを用いて緩やかな「個」を重視し「多数⇄多数」の学びの場の積み重ねがあります。最近ではビジネス現場でも、重視されてきた印象がありますが、参加型教育指数みる感じだと教育現場ではまだまだなのかなと、考えさせられてしまいます。実社会では、「多数↔︎多数」のコミュニケーションが圧倒的に多いのに「1→多数」に教育が偏重してきたのが日本です。

古くは社会教育の分野で共同学習の名の下に、参加型の教育は日本でも注目されてきました。最近では、アクティ・ブラーニング、問題解決型学習(PBL)という形で様々な実践がされています。

参加型、トップダウン型の教育のどちらの良し悪しも踏まえ、教育現場に携わっていく必要がありそうです。

なぜ日本では教育が参加型ではないのでしょうか。

どんな参加型の教育のやり方があるでしょうか。

そもそも参加型の教育の意義とは何で、参加型の教育の良し悪しとは何でしょうか。

ご意見おまちしています。

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