8月に開催された世界教育学会(WERA)でExtended Educationのセッションに出席しました。
子どもの放課後支援の「質」をどう担保するかというテーマです。日本では、子どもの放課後支援は様々なアクターが活動を展開しており、私自身も放課後で育ってきたような身です。
行政の政策としては、「放課後子ども教室」を文科者が、学童保育を厚労省が牽引しており、両アクターが別々の目的で統合されずに実施されているのが現状です。
学会では、日本の文科省と厚労省の放課後支援施策の違いについての報告、海外の研究者からは、例えばスイスの「All day school 」を事例などの報告、ハーバードの教授からは放課後プログラムへのSTEM教育の導入が、ソーシャルスキルや学校の成績に向上するかの研究成果についての報告がありました。
「放課後」とはそもそも何でしょうか
After school program (放課後プログラム) が統合的に実施されていないことが「質」の低下を招くので、より良いプログラムを提供しましょうよというテーゼ。例えば、ハーバード大学の教授はSTEM教育を学校以外でも楽しくインフォーマルに教えれば、学校の成績も上がるし、ソーシャルスキルも高まるよというのを、統計学的に実証していたのです。
この研究のエビデンスレベルは不明でしたが、このハーバードの先生曰く、
「いい放課後プログラムは確かにいい『アウトカム』をもたらし、プログラムの実施者が『説明責任』を果たすことになって、政府もどこに『投資』していいかがわかるようになる。だからこの手の研究は意義がある」
とのことでした。一見すると自然な論理展開で、納得させられます。
さてそこで僕からの質問
そもそも放課後プログラム (after school program)や extended education の目的ってなんなのでしょうか?
After shcool、つまり「放課後」とは「余暇(leisure)」の時間。Leisureとはラテン語で「〜から自由である」「〜から許されている」を意味します。つまり学校の正規のプログラムから自由であることがafter school です。
デュマズディエの「レジャー社会学」ではレジャー(余暇)とは、学校、労働、家事ではないこと、と定義されています。余暇とは、活動自体が自己充足的なものという定義もあります。暇なので何をしなくてもいいし、何かしてもいい。自分で決めればいいのです。
さてここで冒頭のテーゼに戻ると、ここでいうところの子ども向けの放課後プログラム、なぜか放課後なのに学校みたいになっていませんか。
ソーシャルスキルも学校の成績も向上する!のはそうかもしれませんが、それだけが目指される「放課後」になる怖さがあります。(「アウトカム」とは結果で報告されるものであって、導きだすものではないという欧州ユースワーク大会宣言の一文を思い出します。)
もちろん、子どもの興味・関心を引き出して、学校以外の場でさらに楽しく科学や数学について学べたら、それが好きな子にとっては素晴らしい機会でしょう。しかし、誰もがそうだとは限りません。
放課後プログラムの「教育格差」はなぜ起きる
子どもの放課後の「質」は本人が選択した結果であれば良いのですが、このアプローチですと、
①本来的にSTEM教育的なものが好きな子どもが集まる、STEM教育もやっちゃう居場所
②学校が苦手でそういうのから距離を置きたい子どものための居場所
この2者の場所で放課後の体験の「質」に差が出てしまうということになります。
①は実践の結果が測りやすいので「説明責任」を果たせて、行政からのバックアップの元、お金も集まり施策も実行しやすくなりますが、②は居場所事業のアウトカムを求められて「効果がない」と判断されかねないです(①で測定した指標と同じ場合)。
②のような居場所は成績も伸びないし、ソーシャルスキルも上がらない。では、①を頑張っている所により予算配分しましょう、という具合にです。②の居場所作りをしている事業体はますます肩身が狭くなってしまう。こうして放課後が「STEM教育を楽しく学べる場所」ばかりが増えていく..。といった具合に「体験格差」が生じる可能性がありますし、それは既に指摘されています。
この展開、学校教育の新自由主義化が「子どもの放課後」にも侵食してきたとみることが可能ではないでしょうか。教育や行政施策の新自由主義化は、「アカウンタビリティー」「アウトカム」「説明責任」「投資」、というビジネス用語の多用化に現れるとあるセミナーで聞きましたが、まさにそのようなことが起きています。ちなみに、教育政策の新自由主義化の大きな影響を受けたのはスウェーデンです。
「生徒と教員の関係は、顧客とサービス提供者の関係に変わりました」とストックホルム南郊の公立中学校の教員は話す。スウェーデンで1990年代に実行に移された学校の民営化は、様々な影響を及ぼしたようだ。ここ数年、教育におけるデジタルツールの使用が広く促進されているが、この国のPISAランキングは急落した。学校間の競争が高まる…
https://jp.mondediplo.com/2019/02/article977.html
加えて教育政策を新自由主義戦線に寄せたら大変なことになったアメリカの教育の様子はこちらの本でも描かれています。
こういう大きなグロバーリゼーションの潮流の中では、残るものと消えるものがあります。子どもの放課後とは何か?という、そもそも論を精査することなしに調査と政策が進むことにならないように見守る必要がありそうです。
ユースワークの立場から
私のこの発想は、若者の余暇のガーディアイン(守護神)としてのユニバーサルなユースワークの立場の影響もあると思います。ユースワークの文脈からすると、これ以上「学校教育を広げないでほしい」という現場の方の声が上がっています。第二回欧州ユースワーク大会宣言でも extended educationを拡大学習(extended learning)として触れています。学校教育における拡大学習(extended learning)としてのユースワークが「学校における出席や学業成績を高める」という言及もあるのです。
しかし、同宣言ではユースワークの「アウトカム」を特定し計測するべきという圧力がかかっていることに懸念を示し、「アウトカムや影響の計測が重視されるべきではあるが、ユースワークは若者の過程とニーズに集中すべきであり、アウトカムは報告されるものであり、導き出すものではない。」と釘を刺しています。これはつまり、extended learning を尊重しつつも、学校教育とユースワークの距離感は丁寧に扱いましょうね、ということではないでしょうか。
そんな研究をしていたので、世界のそのような潮流に対して放課後支援がどう政策の折り合いをつけているのか気になったところでした。学校教育の新自由主義化の枠組みがそのままextended educationにも及んでいるような、しかしそこは丁寧に取り上げたほうがいいような気もするのです。
一方で、放課後支援は、
・だからといって子どもが放っておかれている場所に親は子どもを預けたくない (故に「質」が重要) ・ニーズは子どもの対象年齢によって異なるので多様な場があってよし ・放課後の余暇にも、大人が関わる場とそうではない場という違いもある
・extended education (拡張教育)を古典的な学校教育の拡大と捉えるのは一つの見方に過ぎない
・放課後の余暇にも、大人が関わる場とそうではない場という違いもある
・extended education (拡張教育)を古典的な学校教育の拡大と捉えるのは一つの見方に過ぎない
という点にも気づかされました。ここで言われているeducationが、例えば社会教育も含む多様な教育実践の一部であるのであれば、それでも良いのではないかとも考え始めました。