衆議院議員議員会館で講演
本日は、朝から衆議院議員議員会館で「若者政策推進議連」の第15回総会にて「若者の社会参画」について講演をしてきました。
せっかくなので、LinkedInに講演で使ったスライドを共有します。
「若者の政治参加」を抱擁する、そもそもの若者の社会参画とはなんぞや、若者政策とはなんぞやという話しを、スウェーデンやEUの若者政策をかい摘みながら、させていただきました。
参加いただいた若者や議員からは以下のような反応がありました。
会場からはこのようなコメントや質問がありました。
- 若者だけでなく、政治の話をしない日本の大人に対してもアプローチをする必要があるのでは?
- 投票のハードルを下げるためにネット選挙は有効か?
- スウェーデンでは教員側の教育をどう担保しているか?
- 民主主義の練習が必要。日本とスウェーデンでは人口構成が違っても「小さく生んで大きく」することはできるのでは?
- 生徒会の活動を活性化するための解決策が欲しい
- 若者議会を地方自治体で作るにあたっての課題
- 啓発的なアプローチから実践的な社会参画の機会を作るような転換が必要
- 若者の社会参画のための目的の高度化が必要。そのための「影響力の発揮」であり、成功体験をいかに作るかが重要
多くの反応をいただき嬉しかったのですが、時間がなかったのですべてを汲み取って締めの言葉を
私たち大人が「若者を変えられる」という権力性をいかに排すことができるか
とさせていただきました。
一部の人に力が偏り、その人たちが「若者を変えよう」「若者のためにできることをしよう」と実践や政策を打とうとします。しかし、いざ実行に移すと、(そもそも当本人から声を聞いていないから)様々な問題が出てきます。するとその人たちが今度はルールを作りはじめ、終いにはルールでがんじがらめになっていきます。NHKの以下の特集でもそれが報じられていますね。
意思決定を他者に依存する、日本人
「してはいけないこと」が多すぎるので、私達の行動は最適化されて、どうせ注意されるので、最初から「〜してもいいですか?」と無用な「許可」を、力を持っている人に聞くようになってしまうのです。
絶賛リツイートされている以下の「排尿行為に許可を求める日本人」はまさにそれを体現しています。
私たち多くの日本人の思考停止や物事の判断を他者に委ねていることの無自覚性が、この反響の多さから伺えます。(全ての反応はこちらから確認できます。賛否両論あり、おもしろいですよ。)
「排尿行為に許可を与えていること」に違和感をもった教員や親は、あえて「ダメ」とからかいながら、本人の意思決定の他者への依存に気づかせます。しかし、これが小さい頃からデフォルトとなりすぎているのでしょうね…。
ちなみにぼくをからかってくれたのは、この僕のスウェーデンの友人です。
その力を手放す勇気を大人が持つことから
意思決定が他者に依存する理由のひとつに、権力の偏在があるのだと思います。「許可を求める、求められる関係性」には力の偏りがあり、これがある限り、権力関係は変わることはなく、結局「誰かに決めてもらう」が当たり前となってしまいます。個人の「意思決定」に介入するのは、親や先生、リーダー、上司、部長、社長、男性など、その社会でより力を持つ人です。
そうして常に誰かが決めてくれることに従順に生きていくこと、一部の人が決めていくことが常態化すると、大人も若者も自分で自分の人生を決めることなく生きてしまうのです。むしろ、何も自分で決めずとも生きていける社会なのかもしれません。それは裏を返せば、誰も責任をとらない社会となってしまうのではないでしょうか。既に今の日本社会はそうなってはいないでしょうか。 今の日本の「若者向け選挙キャンペーン」が失敗する理由 今の日本の「若者向け選挙キャンペーン」が失敗する理由 今年も参加してきました。 毎年おこなわれているストックホルム大学と東京大学の国際比較教育学部のジョイントセミナーが今週ありました。僕は去年もプレゼンをしたのですが、今年もやってみることにしました… 18歳選挙権の実現に伴い若者をどのように「政治参加させていくか」という議論が展開されています。しかし結局それは、大きな力をもった大人がそうじゃない若者へ、一方向的に「歩み寄る」という姿勢であって、アンバランスな権力関係を前提にしています。総会で日本若者協議会の学生さんが「若者に選挙に行ってもらう」という「啓発アプローチの限界」を指摘してくれましたが、まさにその通りです。 誰かに集まりすぎた力をいかに分解するか。それが、民である私たちが、社会を支配するという意味での「民主主義」をつくることにつながるのではないでしょうか。 トイレにいく許可など、とらなくて良い社会にしましょうよ。