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ユースワーク・キャンプ2026に参加者として戻って|「そこにいる・あるから始まる 」場で考えたこと

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2026年10月24日・25日、東京・代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターで開かれた「ユースワーク・キャンプ2026」に参加してきました。若者と関わる実践者や研究者が全国から集まり、「ユースワーク」という言葉を手がかりに学び合う場です。

私はこのキャンプに、2023年の第1回から2025年の第3回まで実行委員として関わってきました(2025年の告知記事でも、立ち上げから3年間関わり、2025年が最後になると書きました)。今年は実行委員会が新しいメンバーに引き継がれた、いわば「第2世代」のキャンプで、私は初めて一参加者として参加しました。この記事では、その体験の振り返りを書いておきたいと思います。なお、私が登壇した分科会の内容については、別の記事であらためて書く予定です。

実行委員から参加者へ

2026年の実行委員会は、これまでの3回を運営してきた委員会から引き継いだ新しいメンバーで構成されています(開催予告)。開催前には、これまでのキャンプを振り返る特別プレ企画「ユースワーク・キャンプを振り返る」が3回にわたって行われ、私も第2弾に2023〜2025年の実行委員の一人として出演し、話をさせてもらいました。関心のある方は、ユースワーク・キャンプのnoteから見てみてください。

運営側にいたころは、どうしても進行や段取りが気になって、場そのものを味わう余裕はあまりありませんでした。正直に言えば、これまでの3回は、インプットもアウトプットも、そしてコミュニケーションの量もかなり多いキャンプだったと思います。その情報量がきつかったという声も耳にしていましたし、私自身、どこかで「話さなければならない」という空気を感じていたところがありました。もちろんそういうモードで関わることもできますが、私にとっても、何気ない自然体の会話の中で生まれるものの方が大事だったりもします。

「そこにいる・あるから始まる」という場のつくり

今年のテーマは「ユースワークという言葉で集まる・つながる・対話するーそこにいる・あるから始まるー」でした。私はこれを、自分なりに「共にあること」をテーマにしたキャンプだと受け止めました。上に書いたようなこれまでの反省を踏まえると、とてもいいテーマだと感じました。

1日目は首都圏のユースワークの現場をグループに分かれて訪ねる視察ツアーで、夜は懇親会でした。2日目は全体会(チェックイン)のあと、7つのテーマの分科会とマルシェが並行して開かれ、最後に全体会で学びを振り返るという流れです(参加者募集の案内)。私が訪ねた民主主義博物館については、次の節で書きます。視察も、ばらばらに現場を見に行くのではなく、キャンプの一部として位置づけられていたので、「ユースワーク・キャンプに参加している」という意識を持ちながら回ることができたのがよかったです。

運営の面で印象に残ったのは、Discordを使った情報の届け方です。案内は整理されていて、必要以上の情報がなく、必要なタイミングでわかりやすい情報が届きました。私もこれまでDiscord運営に携わってきましたが、今年の担当者はあっぱれでした。👏

最後の振り返りの時間も、全員が同じ方向を向いて同じことをするのではなく、会場をゾーンに分け、一人でジャーナリングをしたい人、メモを書きたい人、気兼ねなく話したい人がそれぞれ選べるようになっていました。その雑多な感じがとても心地よく、「そこにいる・ある」ことを大切にする場の設計だと感じました。

1日目:民主主義博物館を訪ねて

1日目の視察ツアーで、私は東京都大田区の田園調布にある民主主義博物館を訪ねました。一般社団法人日本若者協議会が運営する、政治や民主主義について気軽に学べる日本初の常設ミュージアムで、2025年5月に開館しました(実行委員会による視察先紹介)。日本若者協議会のプロジェクトとして知ってはいたものの、ずっと行きたいと思いながら行けずにいた場所だったので、念願がかなった訪問でした。

日本若者協議会を立ち上げた室橋祐貴さんの著書『子ども若者抑圧社会・日本――社会を変える民主主義とは何か』(光文社、2024年)については、以前このブログで書評を紹介したことがあります。子どもや若者が社会に参加できない日本の実態を国内外の事例とともに描き、被選挙権年齢の引き下げ、民主主義教育、学校内での子どもの権利の尊重、若者団体の活動基盤の整備、国内人権機関の設置を提言した本です。私は書評で、規範批判教育、ユースワーカーへの支援、若者団体の若返りという3つの提言を加えました。民主主義博物館は、本で示されたこうした問題意識を、誰もが立ち寄って体験できる「場」として形にしたものなのだと、訪ねてみて感じました。

モデルは台湾の「月経博物館」だった

まず意外だったのは、この博物館の着想のもとになったのが、台湾の博物館だったことです。オルタナの記事によれば、運営団体のメンバーが2024年に台湾を訪れ、若いスタッフが中心となって運営する台北の「月経博物館」を見たことが発想のきっかけになったそうです。スウェーデンにも民主主義をテーマにした似たような施設があるので、私はてっきり北欧の事例を参考にしているのだろうと思っていました。台湾だったというのは、うれしい意外性でした。

言葉のカードをめくり、手にして語り合う

いちばん印象的だったのは、壁一面に貼られた言葉のカードです。黄色いカードには民主主義に関わる言葉が書かれていて、めくると裏にその解説があります(オルタナ)。

私が手に取ったものには、キャンセルカルチャーや、トーンポリシング(主張の中身ではなく語り口を問題にして議論をそらすこと)、抑圧のテクニック(相手を黙らせたり軽んじたりする振る舞いの型)といった言葉がありました。セクシュアルマイノリティに関する言葉や、包括的性教育に関する言葉も並んでいます。日本若者協議会が考える「民主主義」の幅がとても広いことに、あらためて考えさせられました。

私たちはこのカードを一枚めくり、それを手にしながら人と話すというワークショップも体験しました。こうした仕掛け自体は授業でもできるかもしれません。けれども、わざわざその場所に足を運び、その空間の中でやることには、大きな意味と影響力があると感じました。

館内には、デモで掲げられたプラカードのようなものが飾られていたり、日本や海外の社会運動の歴史がまとめられていたりしました。奥には、現在制作中だというドキュメンタリーを見られるコーナーもあります。政治的な内容を含みながら、民主主義に否定的な立場の人へのインタビューも試みているという話が、とても興味深かったです。

私自身も「民主主義」をキーワードに研究や活動をしてきたので、次は日本若者協議会がこれまで開いてきた民主主義ユースフェスティバルにも参加してみたいと思いました。そしてもう一つ、あの言葉のカードに、いつか「ユースワーク」という言葉も加わってほしい、とひそかに願っています。

民主主義の「その先」を考える

視察のあとのリフレクションで、私が話したのは少し重い問いでした。

民主主義は、人を中心に据えて、どうすれば心地よい社会をつくれるか、あらゆる人が尊重される社会をつくれるかを考える営みだと思います。ただ、それはユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で論じる「人間至上主義」の流れの中にあるものでもあります。その中心にいるのは、あくまで人間、ホモ・サピエンスです。

では、その次の課題は何か。私たちは人間を喜ばせるために畜産を営み、意図的に品種の交配を重ね、動物を人間にとって都合のよい形に変えてきました。食べること、ペットとして飼うこと、屠殺すること。人間と同じようには扱われない存在に対して、このまま人間中心でやっていってよいのか。ルトガー・ブレグマンの『倫理的野心を持て』から私が受け取ったのは、「モラルサークル」、つまり道徳的に配慮する対象の輪を、痛みを感じる人間以外の生き物にまで広げ、地球の上で共に生きることを考える必要があるという考え方です。民主主義の博物館を歩きながら、私は「民主主義のその先」には何があるのだろう、と考えさせられました。

もちろん、民主主義博物館に展示されていることやそこに込められたメッセージは、良くも悪くも、いまの日本や世界の姿を映していると思います。同じホモ・サピエンスであっても、一人ひとりが同じように尊重され、豊かに生きられる社会にはまだなっていない。だからこそ、こうした場所が必要とされている。日本でも、若者、セクシュアルマイノリティや女性、経済的に厳しい立場にある人など、さまざまな人が社会に参加できていない現実があることの表れなのだと思います。

ユースワーカーこそ訪れてほしい場所

この博物館は、ユースワーカーが訪れる価値がとても高い場所だと感じました。ユースワークは、目の前の若者と関わるだけでなく、社会の構造に働きかける営みでもあります。私がスウェーデンで見てきたユースワークの現場では、「民主主義」という言葉が当たり前のように語られていました。一方で、私の見るかぎり、日本のユースワークの現場でこの言葉が出てくることはまだまだ少ないと思います(増えてる気もする)。だからこそ、こうした場所に来て、民主主義について考える機会を持つことがとても大事だと思いましたし、こういう場所がもっといろいろな地域にあればいいのに、とも感じました。

「暮らしの中でユースワークする」分科会で考えたこと

2日目の午前中は、分科会「息をするように暮らしの中でユースワークする」に参加しました。3人の登壇者が、若者との関わりや仕事の難しさ、地域への思い、今の立場にたどり着いた経緯を語り、そのあとグループに分かれて対話するという構成です。

聞いていて感じたのは、一人ひとりがユースワークという言葉をどう解釈し、何を意識して活動しているのか、その「ユースワーク・ジャーニー」が見えてくる時間だったということです。登壇者の白川 陽一さんは、必要なときに、必要とされる意味のある大人として存在していたいという趣旨のことを話していて、とても印象に残りました。

ユースワークジャーニーは、私自身がこれまで自分のことを話す場でやってきたことでもあります。ユースワークという言葉に出会ってから、どう研究し、どう活動してきたのか。大学の授業で話したり、このブログに書いたりもしてきました。ユースワークを軸にする、ユースワークと「共にある」とはどういうことなのか。自分は何が得意で、何が不得意なのか。あらためて問い直す機会になりました。一人ひとりのジャーニーを考えられるといいですね。

また、その他の登壇者の話からは、社会の大きな構造が子ども期にさまざまな影響を与えていることがよく伝わってきました。目の前の若者と関わるだけでなく、社会の構造そのものに働きかけること。それもまたユースワークが意識すべきことだと、あらためて感じました。

「ユースワーク」という言葉とどう向き合うか

分科会の後半では、ユースワークという言葉をどう受け止めるかが話題になりました。ユースワークという言葉には、定義のはっきりしなさや、つかみづらさがあり、最初はそこにモヤモヤを感じてしまう人も多いと思います。でも、ユースワークとはそういう性質をもつものだと理解しておくと、「では自分はユースワークという言葉とどう向き合うのか」を考えることができます。

言葉をすぐに自分のものにする必要も、言葉そのものを否定する必要もない。つかみづらさへの違和感はよくわかるけれど、それでも若者と関わっている自分がいることは間違いない。そのうえで、自分は若者とどう関わり、ユースワークという言葉とどう付き合っていくのかを自分なりに捉えていく。ユースワークキャンプのテーマが掲げた「ユースワークという言葉で集まる」ことの意味は、そこにあるのではないかと思いました。

昼休みの雑談で「ラーゴム」がつながった

昼休みは、いろいろな参加者と雑談をする自由な時間でした。何気ない会話から話がどんどん展開していく、こういう機会はなかなかつくりにくいものだと思います。

その雑談の中で、私の頭に浮かんだのがスウェーデン語の「lagom(ラーゴム)」、つまり「ちょうどいい加減」という言葉でした。スウェーデンでは、誰と一緒にいるか、何を食べるか、何を着るか、コーヒーにミルクをどれくらい入れるかといった日常の一つひとつを、子どものころから「自分にとってのちょうどいい」で判断して生きているように見えます。

ラーゴムを理解するのにおすすの本↑

私はこれまで、スウェーデンでは子どものころから民主主義、つまり自己決定を大切にしている、という話をよくしてきました。けれども、「では何のための自己決定なのか」という目的の部分が、自分の中で抜けていたことに気づきました。自分にとって何がちょうどよくて、何が幸せな形なのかを常に考え続けること。ラーゴムこそが自己決定の目的なのではないか、と思えたのです。ユースワークは子ども・若者のウェルビーイングを実現するための取り組みでもあります。自己決定とウェルビーイングが、ラーゴムという言葉で私の中でつながったのは、今回のキャンプでいちばん大きな気づきでした。

効率よく何でもこなせることと、自分にとってのちょうどよさを知っていることは、別のことなのかもしれません。外からの評価や学歴といった物差しの中で自分を築いてきた人ほど、自分にとってのラーゴムを育てる機会がなかったのではないか。この問いは、その後に私が登壇した分科会「新自由主義の時代に、ユースワークの本来的な価値を問い直す」での対話にもつながっていきました。分科会の内容は、「新自由主義から降りるユースワーク」の議論とあわせて、別の記事でまとめるつもりです。

予想外に多くの40人ほどの参加者に来てくださいました。

考えたこと:「そこにいる」ことを支える場とユースワーク

キャンプを終えて振り返ってみると、今回の場の設計そのものが、ユースワークの大切にしてきた価値と重なっていたように思います。

私の理解では、ユースワークは、若者が自分の意思で参加し、強制されずにそこにいられることを大切にしてきました。何かを達成するために集まるのではなく、まずそこにいること、そこにあることから関係が始まる。今年のテーマ「そこにいる・あるから始まる」は、まさにそのことを言い表しているように感じます。そして、振り返りの時間に一人で書く人も、誰かと話す人も、自分で過ごし方を選べたこと、昼休みの雑談のように目的のない時間がきちんと確保されていたことは、参加者一人ひとりが自分にとっての「ちょうどいい」関わり方を選べる場だったということでもあります。キャンプの中で考えたラーゴムが、キャンプという場そのものにも表れていた、と言えるかもしれません。

これまでの3回のキャンプは、たくさん学び、たくさん話し、たくさん持ち帰ることを大切にしてきました。それ自体に大きな意味があったと思っています。ただ、私自身が研究で向き合ってきた問いに引きつけると、「より多く、より効率よく」という価値は、気づかないうちに私たちの学びの場にも入り込んでいるのではないか、とも思います。

これまで、新自由主義の時代にユースワークが成果や効率の物差しに引っ張られていく問題を考えてきました。そこで失われがちなのは、関係づくりや、ただそこにいるだけでいいという価値です。実践者が集まる場でさえ「話さなければならない」と感じてしまうのだとしたら、日々の現場で若者が同じように感じていないかを問い直す必要があるのではないでしょうか。

ラーゴムをめぐる気づきも、ここにつながります。ユースワークの役割は、若者を社会の求める物差しに合わせて「有能」にしていくことではなく、若者が自分にとって何がちょうどよく、何が幸せなのかを考え、選んでいけるよう支えることにあるのだと思います。自己決定は、その先にあるウェルビーイングのためにある。そう考えると、若者の参画や意見表明を進めることも、決めること自体が目的なのではなく、一人ひとりが自分のちょうどよさを見つけていく過程を支えることだと捉え直せそうです。

そしてこれは、若者だけでなく、ユースワーカーや支援者自身にも言えることだと感じました。分科会で考えた「ユースワークという言葉とどう向き合うか」という問いも、言葉にすべてを預けるのでも、言葉を拒むのでもなく、自分にとってちょうどいい距離を探していく営みなのかもしれません。

また、目の前の若者と関わるだけでなく社会の構造に働きかけることもユースワークだとするなら、その一つは、効率や成果だけでは測れない時間や関係を、社会の中にきちんと残していくことなのだと思います。民主主義博物館で考えたように、誰が尊重され、誰が社会に参加できていないのかを問い続けることも、その大切な一部でしょう。そしてその問いは、いずれ人間の外側にまで広がっていくのかもしれません。

おわりに:第2世代のキャンプが見せてくれたもの

立ち上げから関わったキャンプが、新しいメンバーに引き継がれ、自分たちとは違うやり方でかたちになっていく。その場に一参加者としていられたことは、私にとって素直にうれしい経験でした。運営していたころには見えなかった景色が、参加者の側からはたくさん見えました。

同時に、これからのキャンプには、自分たちが見たい景色だけでなく、さまざまな立場から見たキャンプの姿が映し出されていってほしいとも思います。回を重ねるほど、初めて来た人が入りづらさを感じることもあるでしょう。この場に来られなかった人、参加しづらかった人にとっても心地よい場とは何か。それは、ユースワークが若者に対して問い続けていることと同じ問いです。あらゆるユースのことを考え続けることは、ユースワークの一生の使命です。

「ユースワーク」という言葉で集まり、そこにいることから始める。そのシンプルなことの価値を、あらためて確かめた2日間でした。新しい実行委員会の皆さん、運営に関わった皆さん、そして一緒に過ごした参加者の皆さん、ありがとうございました。

皆さんにとって、若者と、そしてユースワークという言葉と関わるうえでの「ちょうどいい」とは、どんなものでしょうか。私も、自分にとってのちょうどよい関わり方を、これからも探し続けていきたいと思います。

参考リンク


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