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スウェーデンと日本を比較することは可能か?

コラム

スウェーデンは福祉先進国として何かとよく引き合いに出され、福祉や環境政策などが注目されています。事実、多くのスタディツアーなどや著書が企画されては日本の方に利用されています。フィンランドがPISA(国際的な学習到達度調査)でトップを占めるようになったことが話題をよび、北欧というくくりですが、教育分野も注目されるようになりました。結果として北欧礼参しすぎてしまうこともあります。

しかし一方で多くの北欧礼参主義に対して批判があります。税制の仕組みや政治体制やイデオロギーの違いが根本的に違うので比較は参考にならないという論調です。たしかに、やみくもな北欧礼参主義は現実的ではありません。スウェーデンの現地に足を運ばずに、二次情報をもとに形成された北欧礼参主義ほど現実的でないものはありません。しかしその批判も極端であり、比較を諦めてしまうものが多いのではないでしょうか。

僕はもともと若者支援の団体をやっていて、その勉強の一貫としてスウェーデンにきたので、日本でやっていた若者支援をよくするための何か示唆を得ようという程度にしか思っていませんでした。そしてある点では日本のほうが優れているなとも思う点も、もちろんあります。基本的にはスウェーデンと日本では社会的にも文化的にも何もかもが違うので比較は難しいです。

しかしだからといって、「まあ文化が違うからねえ…」というだけの理由で、スウェーデンについて学ぶことを諦めたくないのです。日本の子ども・若者をとりまく社会の状況をよくするためのオルタナティブ(代案)があるのなら、どうしてそれを活用しないのでしょうか。

事実、社会科において比較研究の起源については,アリストテレスの行ったギリシア都市国家憲法に関する比較研究」に求めている学者があるほど長い歴史を持っています(2007,朴光駿)

さらに朴光駿氏はこう続けます。

比較の意味についてドガンは次のように述べている「ある人間や観念,あるいは物事を、他の人間や観念,物事と関係づけて評することほど自然なことはなし。知るためには基準となる目印が必要だからである。比較は最も良質な理論を育む土壌ともなりうる。それは社会科学が真に科学となりうるための手段でもある。デカル卜の『われ思う,故にわれ在り』という言葉をもじっていえば, 『われ比較す,故にわれ思う』ということができるのであろう」(Dogan andPelassy/桜井陽1983:1– 4。)

つまり、社会科学において異なる社会を比較して論じることは自然であり、社会問題の解を導くのに適した方法であるということです。故に、スウェーデンと日本を比較することは可能であり、日本の子ども・若者をとりまく社会的状況を向上させるだけでなく、スウェーデン社会にも示唆を与える可能性があるということです。

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