意思決定のない社会と若者。

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この記事の続きです。

EUは2001年から「若者の参画」を若者政策の中心的な課題として位置づけてきた。この参画ってのは、簡単に言うと「若者に関する全てのことがらを若者自身が決めることができるようにする」ということである。それは若者の自分自身のことから家庭、学校、地域、仕事、政治などの全ての社会で自分が関わる全てのことである。こっちでは市民どころか、若者。若者のことは若者が決めてるのだ。

ずっと前にスウェーデンのグループワークのことでもつぶやいたように、こっちの若者は幼い頃から意思決定をする機会が多いように思う。自分のことだけでなく、大小規模を問わずグループで何かを決めるということが、学校では授業の中で、学校外ならユースセンターのクラブ活動・余暇活動、もちろん自分の進路や生き方も自分で決める。

自分が関わっている社会である学校や地域での参画はこのとおりだ。若者団体が、学校内では生徒会・学生連盟(全国生徒会)、地域では若者会(全国若者会)というように無数にあり、それぞれの目標は「学校・地域で若者が意思決定に関われるようにすること」だ。大人が一方的に決めるのではない。また、社会の縮図である学校ではこうだ。スウェーデンの学校では生徒が学校運営に関わってる。程度の差はあるにせよ、全国の学校のうちで学校の環境の意思決定に関わっている割合は 100%、政策・方針については 80%、スケジュールは 40%、教職員採用は 20%だ。(NPO法人 Rightsスウェーデンスタディツアー報告書より)

政党青年部もただの広報団体(対照的にイギリスの青年部は広報団体に近かったが)になってるわけではない。本部と対等に政策論争をして自分たちの政党青年部としての主張をぶつける。そしてこれら諸々の団体を束ねて、EUや国政で代弁をするLSUという若者団体もある。2年前に訪れた時は全ての団体の代表が24歳以下だった。青年事業庁と若者政策を行う省庁が国からとってきた若者団体に助成するための資金の配分をやるのもLSU。この助成金を受けれるためのひとつの条件が代表や理事会のメンバーが25歳以下という条件故に、どの団体の代表も若かったのだ。全国生徒会、全国若者会、政党青年部だけでなくYOUNG KRISやその他のNGO, スポーツ団体もこの助成金に申請できる。LSUは助成金の補助だけでなくこれらの加盟団体の交流の機会や研修の機会も提供する。もちろん大人のユースワーカーの支えもあるだろうが基本的には25歳以下でこれを成しているのだ。現首相のラインフェルトも若者団体に属していたし、KRISの副代表のソフィアも別のNGOをやっていて当初、このLSUの集まりで会ったことがあると言っており、まさに若者団体がキャリアの先駆けになっているのだ。

ひるがえって、僕ら日本の若者は何を決めてきただろうか。何を決めることができただろうか。政治を決めることは当の議員すらできないのだから、もちろん決めれない。学校の運営は教育委員会や教員。生徒会は先生方の手足になるのみ。どこの生徒が学校の方針を決めるなんて想像できるか。家庭の縛りもすごい。自分の進路は親が決める。学費を出してくれてるというのもあるが、そうじゃなくても影響力は大きい。(他方、スウェーデンのシステムでは保護者に経済的に学費を負担してもらわないでもいいようなしくみになっている。大学の学費も無料。生活費をまかなうためにほとんどが奨学金をもらっている。)もし親が何も言わないにしても、僕らは自分の進路を決める「基準」が自分のなかにほとんどないから、とりあえず世間やトモダチの評判、ブランド、偏差値、場所とかに進路を決めてもらっている。消去法なのである。ここに主体性はない。

自分の中に基準がある人は、それまでに何かしら体験があったり、趣味の延長であったりするのだろう。しかしそういう人は少ない。(高校を卒業して大学にストレートで入るという学生は、スウェーデンにはほとんどいない。ほとんどが一度は働いてから、自分の将来にあった選択をしてから大学に来る。OECDの調査でも、諸外国の大学入学の平均年齢は25歳なのに、日本だけ突出して22歳という数字がある。)

部活があるじゃないか。もちろん自分が好きで始めたならいいけど、なぜか先生方は、「部活も入るように!文武両道!」とかいって勧める。エネルギッシュな若者が問題行動に走らないように「抑制」するには持ってこいの手段なのだろう。そして部活と受験勉強で忙しい壮絶な高校生活が始まる。

あとは大学受験というレールにのっかて気づけば大学。そしてここで、これまでの忙しい毎日とは違い、時間もあり、親からも解放され、金銭的にも余裕ができる。そして一気に遊ぶ。これまでの呪縛から解放されるように。そして就活。大学受験のやりかたで試みる…。

そして社会人。しかし日本では大抵の場合、社会人=企業人と捉えられる。これはヨーロッパでは大学に入学する前に一度働いてから大学に入学したり、社会人をしながら学生をするという流動性があるが、そうなっていない日本の体制を象徴している言葉だ。ちなみに、「大学に100人入学したら12人が中退し、13人が留年し、残る75人のうち就職できるのは45人で、3年続くのは31人。いわゆるストレーターは31%」(山本繁,2012) なので明らかにこの社会人はマイノリティですが、話しを進めます。

これまでは社会人になったら企業がみっちりと教育をしてくれて、一人前の大人として育ててくれた。しかし、時代は変わりバブル崩壊・リーマンショックを経て「失われた20年」の中で企業はこれまでのやり方の変更を余儀なくされる。終身雇用・年功序列・企業福祉体制の崩壊だけでなく若手を育て「一人前の大人に育てる」のに費やすお金はあるはずがない。そして、大学→社会人(企業人)→「一人前の大人」というこれまでセオリーだったレールは一気に崩壊する。(新卒一括採用も戦後のこのレールの一部であった(宮本)はずだが、なぜかこれは今でも採用している。)

かくしてたどり着いたのは「無責任で決めれない社会」。僕らの世代はまさにこの失われた20年のなかで腐っていったこの社会の中で生きてきたのだ。これまで右肩上がりだった戦後社会ではフォーディズムに乗っかってトップがガンガン決めて、グイグイ引っ張ってくれてたからそれに乗っかっていけばよかった。しかし経済成長だけが「正解」ではなくなった今はそれができなくなった。政治家もどこにリードしていけばいいかわからないのである。(これは工業化を終えた先進国が抱える共通の課題であり、2000年代からEUではこれを前提に若者政策も含むもろもろの政策を展開してきた。)

自分自身のことは全て、他の誰かや何かが決めてくれていた。政治家はテレビの中で勝手によくわからない政策を決め、進路は親や先生に言われるがままに従い、世間の評判に時にはすがり、トモダチに決めてもらうこともある。かくして行き着いた先がこの無責任で決められない社会であり、僕らが漠然と抱える自分への自信のなさなのである。日本青少年研究所「中学生・高校生の生活と意識・調査報告書」2009年による報告で明らかだ。同じ文化圏に属する中国・韓国とも全く違う数字だ。

 

さらに最新の同調査2012年4月ではこのように報告されている。

以前実施した 1980 年および 2002 年の調査結果と比較して、日本の高校生は「積極
的な人間」「価値のある人間」と自己評価する比率が高くなっているが、同時に、「現
状を変えようとするより、そのまま受入れる方が楽に暮らせる」「自分はダメな人間だ」
という肯定率も高くなっている。特に「現状をそのまま受けるほうがいい」という日
本高校生が 1980 年 24.7%、2002 年 42.1%、2011 年の今回では 56.7%(「よくあては
まる」+「まああてはまる」)と著しく増えてきた。一方、「ダメな人間」について「よ
くあてはまる」と答えた日本高校生が 1980 年の 12.9%に対し、2002 年 30.4%、2011
年 36.0%と、ほぼ 3 倍水準にまで大きく増加した。

 http://www1.odn.ne.jp/youth-study/

この増加が意味することは何なのだろうか。加えて宮本先生の成人年齢18歳引き下げに関するこの話しは印象的だ。

この間、法制審議会の関連で、高校生に聞き取り調査をしました。進学校、職業高校、いろいろなタ イプの聞き取り調査をして、私もいくつかの高校に行きましたが、高校生の反応は、18 才に下ろす必 要はないと。なぜかと言えば、18 才に下ろされてもとても自信がないという点が第一でした。18 才に下ろしたら、投票に行きますかと聞いたところ、ほとんどの生徒が行かないと答えました。 なぜかと言えば、そういう勉強をしていないので、そんな形で投票するのはむしろ無責任だと思うとい う回答でした。

http://www.nagaokauniv.ac.jp/m-guide/pdf/book22.pdf

 

何かを自分で決めるということには、多少なりとも勇気と覚悟が必要になる。それは責任を自覚した主体的な決定であるからだ。だからこそ、決めることで前進し、自己実現できるとそれが本人の自信になる。高校生が「自信がない」というのは単に政治のリテラシーがあるなしというだけの問題ではない。彼ら彼女ら自身がこれまで自分のことも含めた「意思決定」をすることがほとんどなかったからなのである。社会のことどころか、自分のことすら主体的に決める機会を与えられてこなかった。他の誰かが決めてくれた。それでいきなり高校を卒業する年齢の18歳になったら投票というのだからたまったもんじゃないだろう。参画のはしごの最初のステップを欠落した例だ。これは僕もすごく共感する。僕自身もそれまでかかわってきた社会は、そんなに大きくなかった。世の中のことがあまりわからなかったし、自分への自信もなかった。

意思決定への「参画」は、本人に自信を与えるという面を忘れてはいけない。この小さな自信の積み重ねが、不安定な青年期を成長して過ごす支えになるのである。次世代の社会の担い手を育てるというのは、リテラシー・スキルの醸成だけでなく自分や社会に対する肯定的な意識を育てるということも忘れてはならない。幼いときの教育がとか、能力がとかそういう問題じゃなくてそもそもそういう機会が当たり前のように位置づけられていない(とくに青年期に)というシステムの問題なのだと思う。だからこそ、ヨーロッパではEUがそれを牽引しているように若者政策(Youth Policy)という枠組みの中で位置づけていかないといけない。

  1. 西 元太 より:

    こんにちは。ストックホルム大でお世話になっている西 元太です!面と向かって話す時は、面白い話や下ネタだけにすべきだと思うので、コメント欄で感想をここで書かせていただきます。

    「意思決定」の重要さを若者の「自信」と結びつける発想にすごく共感しました。ただ「意思決定」という語の定義はすごく曖昧で、どのような状況を「意思決定が正しく行われた」と判断するかは簡単ではないと思います。それは、「意思」とゆうのは「他者」(先生、家族、友達など)が存在してこそのものであり、きわめて相対的なものであり、また流動的なものだからです。正しい「意思決定」を行うには、自ら考え行動するアウトプットと、正しい知識を取り入れるインプットはいわば車の両輪のようなもので、どちらも欠かせません。そういった意味では、日本のシステムを概観していえば、きわめてインプットに比重を置き、アウトプットとのバランスが取れていないと思います(たっぺいさんもブログの中でおっしゃっていましたが)。

    そして最後に、たっぺいさん、かっこいい!w

  2. ひげぴよ より:

    げんた
    おそくなったけどコメントするね。

    >「意思決定」の重要さを若者の「自信」と結びつける発想にすごく共感しました。ただ「意思決定」という語の定義はすごく曖昧で、どのような状況を「意思決定が正しく行われた」と判断するかは簡単ではないと思います。それは、「意思」とゆうのは「他者」(先生、家族、友達など)が存在してこそのものであり、きわめて相対的なものであり、また流動的なものだからです

    まず僕がここでいう意思決定への参画ってのはYoung poeple should participate the decision making in terms of all concers that affair themselves っていう意味。で、じゃParticipateってのは何かって言うと参加とか参画って訳されるんだけど、この参画と意思決定の関係を表した代表作がロージャーハートの参画のはしご。http://www.rikkyo.ne.jp/~htanaka/01/Sankaku01.html このリンクをみてもらったらわかると思うけど、参画にはこのように程度があって(これはこれで議論をよぶけどここでは論じない)、「非参画」の状態から子ども・若者を解放する必要がある。これが僕がここでいう、「意思決定」のことね。だからプロセスとしての「意思決定」が正確に行なわれたかどうかはこの梯子がひとつの目安としてあげられる。そもそもこの梯子自体にも批判もあるし、他のフレームワークも色々とあるし、何を正しい参加とするか、何が子ども・若者にとっての最大の利益なのか、というのは永遠の問いでコンテキストに応じて議論されなければいけないのだけどね。

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