若者にとって「余暇」とは何か|北欧の若者支援がターゲット型ではない理由

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公財)京都市ユースサービス協会の機関紙である「ユースサービス Vol. 34 」に寄稿させていただきました。

ユースサービス

今回の特集のテーマは「若者×余暇」ということで、「余暇」をキーワードに一筆書かせていただきました。

許可をいただいたので本文を以下に転載です。

たっぺい
たっぺい

なぜ北欧のユースワークが困難層のみに支援対象を絞らないユニバーサルなアプローチなのか、そのヒントになればと思います。


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暇がなくなっていく日本社会

 「最近の中高生は忙しすぎる」

そんな話しを耳にすることが増えてきたのは、気のせいではない。毎年、全国の15歳から79歳の男女を対象に余暇意識の実態調査を行なっている『レジャー白書 2017』[1]によると余暇時間が「増えた」と回答した人は、2014年を除いて2009年以降連続して減少している。「増えた」と答えた人の割合から「減った」と答えた人の割合を差し引いた値を「時間的なゆとり感指数」と同書は定めているが、この値は過去20年間以上でゼロを下回っている。つまり、意識上の日本人の余暇の時間はこの20年間で減っているのである。この「ゆとり感」の日本社会全体での減少こそが、中高生、ひいては若者世代の多忙化を招いているのではないだろうか。

改めて若者にとっての余暇とは何か?

そもそも「余暇」とは何だろうか。日本では、「余暇」または「レジャー」は休暇における観光やリゾート、あるいはスポーツなどの何かしらの体験活動をともなう活動のようなイメージが強くないだろうか。それは余暇という語が「余る暇」と書くからであろうか。そもそも言語学的にはleisureとはラテン語のlicēre「許されていること」もしくは「自由であること」を意味している。

では、何から許されていること、何から自由であることを意味しているのであろうか。

フランスの余暇研究者 J.デュマスディエは余暇研究の分野でその理論構築と実践に大いに貢献した。彼の著作の一つである1972年発行の『レジャー社会学』[2]では、余暇の定義を以下のように4つあげている。 (P.129-130)

1. 余暇[3]とは一つの行動カテゴリーではなく、ひとつの行動様式である。それは、どんな行動の中にも見いだすことができる
2. 余暇を職業労働との関連で規定する。職業労働の対極に余暇がある
3. 家庭内での業務的活動は余暇から除かれる
4. 究極の目的として自己実現を志向する時間である

さらに余暇の特徴として以下の要素を挙げている。(P.138-144)

  • 解放性:余暇とは、自由な選択の結果生じるものである
  • 非利害性:職業労働や家庭内の義務的活動のように実利性を目的としない
  • 楽しみ志向性:自分の充足それ自体を目的として追求される
  • 個性性:個人が自我の統一性を防御する行動に結びつく。また、全人格的な人間をもつ利害関係に動かされない潜在的能力を実現させることに結びつく  

以上によると「余暇」とは職業労働の対極にあり、家庭の手伝いなどを除く自己実現を志向する時間・行動様式と言い換えることができる。

ではこの余暇が若者だけを対象にするとどうなるのか。ここで私の研究対象である北欧のユースワークがどう余暇を考えるのか参考にしてみたい。スウェーデンのユースワーカーは「余暇リーダー」という肩書きを持ち、「余暇センター」においてユースワークを行う。また、同国の若者政策は、経済・社会的排除、教育、健康・メンタルヘルス、労働・住居、影響・代表、そして文化・余暇の5つの領域をその小分野に位置づける。スウェーデン若者・市民社会庁はその上で、若者にとっての余暇とは「学校および就労以外の時間」を意味し、この領域にかかわるあらゆる政策は「若者と社会の両方にとって価値のあるもの」として余暇における若者の活動の本来的な価値を認めている[4]

学校教育とも労働とも距離を置いた「余暇」が若者政策の一つの柱であるこの事実は、北欧のユースワークが特定の困難を抱えた若者だけを対象にしない「ユニバーサル」なユースワークであり、その所以が「若者の余暇」を中心に展開されるからであることを教えてくれる。つまり、ユースワークは若者の余暇の「ガーディアン(守護神)」なのである。

以上を踏まえると若者にとっての余暇とは、学校教育や労働、家事などの社会的な要請や、生活上の必要性からやらざるを得ない活動ではなく、自らの興味に基づいて意思決定 (参画) した結果の、楽しみや自己表現のための時間・行動様式であるといえよう。つまり、余暇とは「暇であること」そのものである。わざわざ何かしらの目的を持って「暇な時間」を過ごす必要もないし、したければそうすれば良い人は、誰かにやらされる宿題や家事や労働などのような「外発的な動機づけ」から解放されたときに本来的に暇になるのである。

「暇な時間」は誰にも強要されず、目的をもつ必要もない。だからこそ自分の内なる真の動機は何か向き合うことができる。それはいつもの居場所で特に目的もなくスマホをいじることかもしれないし、あるいは選挙が近いから候補者を呼んで公開討論会をやろうと立ち上がったプロジェクトかもしれない。

問われるべしは「余暇の意義」が問われる世の中の在り方そのものであり、この問いが出てきた背景にこそ私たちは向き合う時が来ているのではないか。余暇が大切にされない社会、余暇が大切にされる社会、私たちはどちらの社会に生きたいだろうか。

 


[1] 日本生産性本部. レジャー白書 余暇の現状と産業・市場の動向. 東京: 日本生産性本部, 2017, pp18.

[2] (和訳参照) 瀬沼克彰.「西欧にみる工業化社会の余暇思想」. 桜美林大学経営政策論集 8, no. 1 (2009年2月): 1–12.

[3] ここでは便宜的に、「レジャー」の和訳を「余暇」で統一する。

[4] Myndigheten för ungdoms- och civilsamhällesfrågor.Fokus 14 ungas fritid och organisering. Stockholm: Myndigheten för undgoms- och civilsamhällesfrågor, 2014, pp7.  

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