子どもの人生に干渉しすぎる「ヘリコプターペアレント」にならないために

キャリア・生き方
By: Daniel Voyager - CC BY 2.0

ときに、子供のために最良の「ありかた」は、(親が)不在であること。

「ヘリコプターペアレント」とは? 生きづらい子どもに育つ親の存在 #だからひとりが好き
「ヘリコプターペアレント」という言葉を聞いたことがありますか。

最近、この記事でいう「ヘリコプターペアレント」の元で育ったような方から、個人的に相談されることが多いです。日本では、子ども・若者の参画(意思決定)を阻害していることの一つとして、親の子どもの人生への「過干渉」があるように思います。

ヘリコプターペアレントとは何か?

 上記事によるとヘリコプターペアレントとは、

自分の子供の周りを、まるでヘリコプターがホバリングするように、関わり続けることがやめられない親のことをいいます。子供たちを泡で包むかのように扱い、結果として、仕事や人生に必要な能力に問題を抱える若い大人たちを育ててしまっているのです。

とのことです。身の回りでもそういう環境で育ってきた人、結構いたりしませんか。日本では「毒親」という言葉で形容されるようです。

親の子どもへの過干渉は、逆にいつまでも親の顔色を伺って精神的に自立できない「子どもな大人」を育てる可能性があります。根本には、他人の自由を尊重し、自分のことを自分で決める、または決めてもらうという、考え方を持っていないというシンプルな問題です。

なぜある親は子どもの人生に干渉しすぎるのか?

では、親はなぜ子どもへ過干渉するのでしょうか。なぜ子どもの習い事、進路や人間関係にも立ち入ろうとするのでしょうか。

根本には「子どもは親の所有物」であるという考え方があるのではないでしょうか。所有物だから「いい教育をしてあげる」となるので、習い事を決めてあげるし「守りたい」ので、娘の彼氏に手を出させないように立ち入ったりするのではないでしょうか。

NetflixのオムニバスSFシリーズノ「ブラック・ミラー」のシーズン4エピソード2の「アーク・エンジェル 」では、親の過干渉が招く悲劇が描かれています。目に植めこまれた監視デバイスにより、娘が観るものすべてが親のデバイスで観ることができることを知った娘。「あなたのためを思って」と悪気はなかったと伝えるも….。って感じの内容です。

このことを山田ズーニーさんは、「母娘密着は分身化しやすい」と表現し、母親のやりたいことを娘に託すことを「アバター(仮想空間における自分の分身となるキャラクターのこと)」に例えてこう綴ります。

やりたいことがやれずにきてしまった母親にとって、
顔も似ていて若い肉体を持つ娘は、
生き直すための格好の体。

娘をアバターに、母親が自分のやりたかったことをする。

娘にとっかえひっかえ、
自分の着たい服を着せているぐらいなら

まだ、自分のやれなかったことを、すまないが、
娘に代わってやってもらってスッとする、
にとどまるけれど、

自分の行きたかった大学に行かせる、
自分が就けなかった憧れの仕事に就かせる、
自分好みの男性とつきあわせようとする、
などになったらこれは、

もはや、アバタ―。

ほぼ日刊イトイ新聞 – おとなの小論文教室。 https://www.1101.com/essay/2017-04-05.html

親の人生の生きがいを子どもに託すということが起きていますね。僕の周りの女性でも実際に、

・小学生の頃から結婚するまでの人生プランを親に決められていた
・30歳になっても一人暮らしを許してくれなかった
・30歳になっても彼氏の家にお泊まりを許せてもらえなかった

という方がいました。

「親からの影響力を下げる」ことは若者の自立支援の基本の一つであると、支援者の友人が教えてくれたことを思い出します。このぐらいのケースになると、最初は依存が「親→子」だったものが、「子→親」にもシフトして親子共々「共依存」の関係になってしまうということがあると聞きました。

ちなみに「子どもは親の所有物である」という考え方は、体罰を容認する考え方に繋がるとも言われています。

「理に適った体罰」や「法的に容認される懲罰」といった概念は、子どもを親の所有物とする認識から生まれます。

欧州評議会人権理事のトマス・ハマーベリ

冒頭のハフィントンの記事では、「2013年にはヘリコプターペアレントに育てられた大学生はうつの割合が高い」ことが指摘されています。

ヘリコプターペアレントにならないために

自分のやりたいことを実現できなかったり、「世間」の評判や評価や、子どもを、他の子どもと比較してしまって、親が子どもの生き方を決めてしまうということの影響に私たちはもっと敏感であってもいいのではないでしょうか。

知らず知らずのうちに、自分の問題を子どもに「着せ替える」ことになっていないか。その決定の「主語」は誰なのか。「あなのためを思って」と勝手に思い込んでないか。

そう、問い続ける必要があるでしょう。

Partly edited by 

Miyadera Takayuki

コメント

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
投稿を見逃しません
タイトルとURLをコピーしました