
By: Felix Dance – CC BY 2.0
新成人に「期待する」紙面
成人の日の紙面ではいつも通りの紋切型のコンセプトで「新成人」へのメッセージが綴られる。だいたい今の若者の流行りとか「夢」とか「大志を抱け!」というような内容である。そこには若者を「大人」とは異なる存在と捉え、若者に「もっとこうなって欲しい」というまなざしが見え隠れする。
「若者にもっとこうなって欲しい」という記事について、私は高校の時から「何様なんだろうな」と感じていた。記事のパターナル(よかれと思ってする本人からすると傍迷惑)な姿勢はずっと変わらない。「大人が若者を変えてあげることができる」という発想を捨てないと、このコンセプト自体が変わらない。
まず、大人と異なる「異質な他者」としての「若者像」自体に無理がある。若者論は一億総中流社会の形成と共に始まったといわれているので、総中流が激減した昨今では「大人 vs 若者」という世代論が成り立たない。加えて若者世代は、かつてない多様な価値観と生き方を体現しているし、むしろ大人世代もそうなってきているのではないか。
「大人が若者を変えてあげる」を諦めるべき理由
「大人が若者を変えてあげる」を諦めるべきなのは、
①そのパターナルな姿勢で寄ってくることを嫌がる人もいること
②「若者世代」と単純に捉えることはできないくらいに若者が多様化していること
③そもそもこうなって欲しい!という「大人像」や生き方が描きやすい社会ではなくなったから
である。
若者にかんすることは若者が決める。それが「若者参加」の本質であるが、大人が「若者を変えてあげよう」とすると、若者のことを大人が決めがちになる。そのとき、「権力」は大人の手の中にあることが多い。大人と若者が対等ではない時に、権力が不均衡になる。その権力性に敏感な若者は確かに存在する。
結局は大人が決めるんでしょ?
「とはいえ結局、最後は大人の案が通ることが多いですよね?」
という人は、縦割り社会で生きており、妥協点ではなく「浮揚点」に達するみフラットな合意形成の場の経験がないか想像ができないか、あるいはそもそもその人の手中から「権力」を本質的に手渡した or された経験がないから、そういう発想になるのではないだろうか。
自分が想像も経験もしたことがないことを前提にして、押しつけてはいけない。それはただの迷惑でしょうに。これからもっと「わからない」未来が到来する中で、これまでの経験でものを語れる事などなくなる社会では、大人も若者も常に同じラインにいるともいえる。大人も若者世代も関係なく、他者が「わからない」を前提にするほうがよっぽど話は早い。
「将来のために、必ず学んでおかねばならないことを教えてくれる人は誰もいない」と社会学者のベックは言うが、この眼差しが記事の書き手にはあるかどうか、今年の #成人の日 の新聞記事を読んでみてはどうか。
だから若者政策は必要。
「では若者政策なんていらないのではないか?」
と思うかもしれないが、だから必要なのだ。若者政策がないと「大人が変えよう」とするまなざしを抑えることができない。つまり、若者政策とは社会や大人側の価値観のほうを変えるための装置なのである。
若者政策が社会的包摂を担うのは、社会の構造により若者が社会的排除層になってしまったからである。ある研究で社会的排除層にある人ほど声をあげにくいことが明らかになっているが、だから声を聴く装置としての若者政策が必要なのだ。つまり、上記2つの原理がない若者政策は、百害あって一理なしなのである。
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