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高校生のプロジェクトを大人が審査できようか?

先週は、「全国高校生マイプロジェクトアワード」の審査員を努めさせていただきました。スウェーデンの若者政策の研究者としてその時に感じたこと、考えたことをまとめます。

全国高校生マイプロジェクトアワードとは?

「全国高校生マイプロジェクトアワード」の主催は「マイプロジェクト実行委員会」です。全国16団体で結成しています。その事務局を担っているのは、NPO法人カタリバです。

NPO法人カタリバ とは、もともと「高校生の心に火を灯す」といったスローガンで高校にキャリア教育の授業をする学生団体として2001年に発足しました。学生団体として発足しただけあって、授業の提供者が大学生でした。ファシリテーションを活用した上意下達ではない授業の形、そして高校生にとっては「少し大人だけど、そこまで年が離れていない大人」という、友達(横)でも大人・先生(縦)でもない「ナナメの関係」を構築するといった「斬新さ」が当時、注目されました。

今年のマイプロアワードにて。僕は、中央左。同じく審査員の 若新雄純 さんが常に隣にいて謎に緊張していました。

 

僕自身は、当時静岡の大学生であり似たように若者支援の活動をする中で、自然と知るようになりました。大学生がキャリア教育を高校生に提供するという、その距離感には共感をしていましたが、学校の中での「授業をする」のは、教育的枠組みを超えていないじゃないか?とひねくれた眼差しを送っていました。一方、こちらは学校「外」の活動で、中高生の余暇活動を大学生が応援するというプロジェクトを2010年から本格的に始動していました。北欧やイギリスのユースワーク(若者世代の余暇活動支援)を研究していく中でこれぞ本物のユースワークで、日本でとくに求められているのではないかという自負は、活動を続け、北欧の地でユースワークを学ぶ中でいつしか確信に変わっていったのでした。

話を戻すと、カタリバはその後、都内でNPO法人として事業委託を受けるなどして活動を展開し、大学生ボランティアの力も借りながら事業を継続していきました。2011年3月はカタリバの1つのターニングポイントとなりました。東日本大震災が勃発し、東北のために何かできないか模索をする中で生まれた事業が被災地における子どもの居場所作りでした。

この時から、学校内の教育に限らない子どものための「サードプレイス」としての居場所作りを意識するようになったということです。東京文京区にはb-labという中高生の「秘密基地」というコンセプトの居場所が2015年に設立されました。その後も、熊本の被災地における子どもの居場所づくり、さらに島根においてはコミュニティスクールを展開。東京足立区には、困難を抱える層の子どもの学習支援をする居場所を設置しました。

マイプロジェクトは元々、井上英之准教授が慶應大学の授業として開発したプログラムということです。2011年以降、東日本大震災被災地にて自然発生的に高校生へと拡がり、カタリバも自分たちの運営する拠点(コラボ・スクールやb-lab)の高校生のために取り入れたのでした。

僕がカタリバと仕事をするようになった経緯

僕が、カタリバと接見したのは2017年の11月にスウェーデンへの視察をした時からです。スウェーデン視察をやることになったきっかけは、2016年の3月に関東の中高生施設職員交流会のTEENSの勉強会でした。「スウェーデンのユースワーク」についてプチ勉強会を開催してそこで講師をさせていただいたのでした。

そこに都内の中高生施設b-labの職員さんがきており、その時からカタリバの職員さんと交流が始まりました。それから、たまに施設を覗きにいったり、飲みにいったりしたのでした。僕が他の場所で講演した時にも、わざわざ足を運んでくださったりもしました。そして、昨年の春先にカタリバ代表の自宅にお呼びいただき、スウェーデンのユースワークの話をさせていただきました。そのままカタリバが助成金を申請して視察を実現するに至ったのです。そして2017年11月、全国の各地の拠点のトップ11名とともにスウェーデンへ旅立ちました。( 続きはこちらの記事で

そんなご縁があって、先日のマイプロアワードにいたるのでした。

高校生のプロジェクトを審査するのが嫌だった理由

「全国高校生マイプロジェクトアワード」とは、簡単にいうと全国各地で高校生がとりくむ「プロジェクト」(これをマイプロという)を表彰するものです。その規模や、北海道から沖縄まで、全国230のプロジェクトからの応募があったということです。地方大会を勝ち抜いた16のプロジェクトが今回の全国大会への出場権を得ました。

スウェーデンで大人が若者の余暇活動に口出ししなくなった理由

僕は正直、高校生のプロジェクトを「審査」することには大反対でした。それは「審査」という行為そのものが、パターナリスティックであったからです。

「そもそも大人が子どもの余暇活動にどう影響を与えることなどできようか?」

これは1940年代のスウェーデンの若者政策を審議した会合におけるある参加者の発言です。この発言が起点となって、それまで若者のを社会問題扱いしていた通称「ギャングボーイ委員会」はパターナリスティックになりがちな大人の姿勢を改めました。以後、スウェーデンの若者政策は、若者当事者の本人の視点を重視し、若者の参画をあらゆる側面において支援していく形になっていきました。

教育における大きな弊害の1つがパターナリズムです。「私がしてあげる」という、悪くいうとおこがましい姿勢が、支援者・被支援者の関係を悪くするのがパターナリズムの悪弊です。別に求めていないのに、一方的に過剰に面倒をみたがる大人・先生、思い浮かばない人の方が少ないのではないでしょうか。そのような意味で、審査というのはある意味、特殊な状況で、いい面も悪い面も、その人の行為を一面的に切り取って暫定的にジャッジします。つまり、大人の視点で中高生の「余暇活動」を評価するというのは、大人が中高生の余暇活動に影響を与える行為そのものなのです。

しかもこの全国大会の優勝者には、「文部科学大臣賞」が用意されており、社会教育畑の人の格好の批判の的となり得るのです。「高校生の活動の動機が、賞与になるじゃないかー!」「結局、学校教育に回収されてしまうじゃないかー!」といった具合にです..。

加えて、評価する行為そのものへの僕自身の嫌いがありました。「日本人は周りの目を気にしすぎ!」とはスウェーデン留学中によくいわれたことであるが、実際にその節はあると思います。同時通訳者の関谷英理子氏は、日本人の英語が伸びない本当の理由は、評価しあうことにあると言います。

「ほかの人の英語について評価を下すこと、これは絶対にしてはいけません。」

なぜなら、これは日本人が他人と能力を比較したり競争したりする傾向にあり、それが逆に英語学習の障壁になっているからということです。評価を下すという行為をすると、例えば周りに自分の英語に口だしをしてくる人がいなくても、自分の中で自分の英語を評価しようとするもう一人の自分が作られます。結果、それを気にしすぎて口ごもってしまう。

これは例の1つに過ぎないですが、日本の多くの教育現場においては、自らの学力や成績などを他人と比較することが一般的になっていると思います。これが所以で、客観的な評価基準をすぐ根拠に求めたり、気にしすぎて、自分自身の「評価基準」でものごとが、「決めづらくなっているのではないか」と雑感ながら思うことが多々あるのでした。

審査はこんな感じ

….とまあ、そんなことを思いながらも結果的には審査員の役を引き受けたのです。理由は、それでも高校生がどんなプロジェクトやっているか、それをどう表現して伝えようとしているかが知りたくてしょうがなかったからです。まあスウェーデンでも”America’s Got Talent”のような、若者がパフォーマンスをして、それを地域のアーティストやプロが審査するようなことはしていたしな、と自分を納得させて当日会場に向かいました。

元テレビ朝日のアナウンサーが司会をし、審査員にはLINEの開発者からAbemaTVでお馴染みの若新さんと豪華な顔ぶれです。その中に、スウェーデンの若者政策専門家として招かれた僕…。恐縮でした。同じグループの審査員にはLINEの開発の企画を当初からやっていた稲垣さん、日本財団の荻上さん、そして島根県教育庁の常松さんといった顔ぶれでした。

しかし、そのような期待とは打って変わって、当日はおだやかかつ情緒的に、高校生との対話の場が繰り広げられました。

高校生によるプレゼンテーションは、1つの会場に4ブースが仕切られ、同じ会場で同時多発的にプレゼンテーションが始まります。就職説明会のような。そこに4人の審査員がバラバラに配置され、ローテーションしていきます。審査員は4つの発表を聞くので、高校生は4回同じプレゼンテーションをします。 全部で32の発表があり、それが学校部門(16)と、個人・グループ部門(16)で分かれます。審査員も16人で、僕たち4人のグループは個人・グループ部門(16)から(これをさらに2つに分けて)2つを選び出します。僕が審査を担当したのは以下のプロジェクトです。

・夢見るcloset(宮城県)
・石巻クエスト(宮城県)
・「イロドリ-the color of Japan-」(島根県)
・山梨県を学生の手でLGBTフレンドリーな街にしよう!!(山梨県)
・おから繋がるプロジェクト(愛知県)
・呉を世界に世界を呉に~団結した学生が1つのカルチャーを作る(広島県)
・スマイル革命(岐阜県)
・教員と小中高生対話プロジェクト(熊本県)

1日目に選ばれた8つのプロジェクトが2日目に進出し、再度プレゼンテーションをしてそこで最終審査となるのです。審査の基準は、Ownership (自分ゴトと捉えて主体的であるか)、Cooperation (協働)、そしてLearning (学習)でした。点数づけはあくまでも目安で、審査は基本的には審査員同士の議論に委ねられます。

スタッフから事前にお願いされていたのは、高校生の発表を審査する場ではあるけでも、対話を重視することでした。この場も学びの過程の1つの場であるからということです。

琴線に触れた2つのプロジェクト

僕が心揺さぶられたプロジェクトは2つありました。

・山梨県を学生の手でLGBTフレンドリーな街にしよう!!(山梨県)
・教員と小中高生対話プロジェクト(熊本県)

山梨のプロジェクトにいたっては堪えきれず涙しました。プロジェクトは、LGBTの人のための居場所づくり、啓発活動をしているプロジェクトでした。ショックだったのは、この活動をしていて学校の教員に活動をしないように注意されて、しばらく活動休止をせざるを得なかったことです。それでもリスクを背負って活動をしているのは、同じような立場にある人に同じ思いを感じて欲しくないからということでした。日本の社会を前提として、生きづらさを覚えている人を「可愛そうだから」と投票したのではありません。普通に生きているのに先生に「それはうちの学校の評判が下がるからやめろ」と大人の都合で生きづらさを感じたことに憤りを感じたからです。

もう1つの熊本のプロジェクトは、高校生が教員に対話の場の作り方を教えるというプロジェクトでした。あるときの授業で意見を否定されて、そのことが人格を否定されたように感じたことがきっかけということでした。ファシリテーションを教員に教えるというのは、それこそパウロフレイレの「被抑圧者の教育学」的なアプローチであり、僕のテーマとすっかり合致していましたし、僕自身も大学の頃にファシリテーションをするサークルで場づくりをずっとしてきたからです。

最終審査にはどちらも残りませんでした。僕は、この2つのプロジェクトを他の審査員に激推ししましたがその努力叶わずでした。後日、気づかされたのは僕の審査基準にはおそらく「社会正義」「民主主義」「社会的包摂」「連帯」という基準が入っていたことです。とても主観的なこの基準は残念ながら受け入れられませんでしたが、しかし2つのプロジェクトをしている高校生には何があっても応援するという想いを伝えることはできたと思います。

高校生が大人社会を審査している場なのではないか?

おそらく、僕が心打たれたのは、「被抑圧者を生み出す日本の社会の状況への憤り」なのかもしれません。高校生にそんな気づき、そして「闘う」ってこういうことだと教えられました。ふと高校生のプレゼンテーションを聴いて、実は「この場は、高校生が大人社会を審査している場なのではないか」と思いました。これは「全国大会」という大会形式のワークショップだけであって、試されているのはその場にいた僕たち大人であり、若者にどう向きあって真剣勝負してくれるのか、そういう眼差しが彼女達から向けられていたのではないでしょうか。

若新さんも審査後のコメントで、「結局、審査なんて大人のエゴなんですよ!」と述べていましたが本当にその通りで、この発言は単にあの場を和やかにしてくれただけでなく、あらゆる「審査」というある種、社会の中で「当たり前」となっているコミュニケーションの前提に釘を指してくれました。

「関係者以外立入禁止」の世の中にしないために

高校・大学受験、資格試験、就職の面接、賃貸の契約、ローンの審査など、私達はいつだって審査の目にさらされて生きていくことになります。その審査が度を超えると「関係者以外立入禁止」の札が掲げられ、ある特定の層の人がアクセスできなくなり、それが社会的排除、そして分断社会へと繋がります。岩田正美『社会的排除』)2つのプロジェクトはどちらも「関係者以外立ち入り禁止」をつきつけられたともいえるでしょう。LGBTの人のためのプロジェクトの活動を休止するように求めた先生だって、ただの意地悪な教師の振る舞いではないことは想像ができます。しかし、「学校側の都合」を考えると、私たち若者にとって当たり前ではないロジックが時にこのように表面化するのではないでしょうか。

大人の当たり前は若者にとって「普通ではない」。若者の当たり前は大人にとって「普通ではない」。「普通ではない」からといって直ぐに「立ち入り禁止」としてしまうのか。ブロックしてしまうのか。それとも互いにとって「普通ではない」からこそ、大人は若者の声を聴き、若者は大人の声を聴き、ともに「浮揚点」がでてくるまで対話していくのか。そういう意味で「参画」とは、民主主義を機能させる一つの装置であるということができます。そしてこれは、大人 vs 若者・子どものみに限らず、人種、宗教、性別、性的指向、障がい、居住地、国籍など人をわけるあらゆる「属性」においても同様のことがいえます。気づかないうちに掲げている「関係者以外立ち入り禁止」札がないかどうか、それに気づかせてくれる人、その視点を大事にして、これまで見えなかったその札を取り除いていく社会にしていくのかどうか、私たちが試されています。

いつか、彼女達の考える「普通」が「普通」な世の中になりますように。

 

 

Photo provided by

NPO法人カタリバ

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