一見リア充そうな若者でも実は人の目ばかり気にしているから本当は怖くて『ソフト』になっている|グローバル時代の若者と民主主義の今ここ

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2017年の3月、こちらのシンポジウムで講演させていただきました。

平成28年12月にリニューアルオープンする世田谷区立野毛青少年交流センター(通称のげ青)別館。今後は「ノゲセイフューチャーハブ」という名称で、世田谷区における青少年の活動拠点として展開していきます。12月開催の第1回オープニングシンポジウム(

野毛青少年交流センターという場で話すことは、ぼくにとってとてもチャレンジだったので、当日まで責任の重圧をひしひしと感じていました。

相変わらず急進的な発言ばかりでしたが、司会の大学生ボランティア、コーディネーターの萩原先生(駒澤大学)や、来場者に包み込まれ、引き出される形で場に貢献できたと思います。質疑応答も座談会も盛り上がりました。

ぼくが最後の締めのコメントで話したことと、最近考えていることをまとめてみる。

同じテーブルに意思決定者と若者が座っていることの価値

座談会で、司会の学生ボランティアが「予算のない若者政策は美辞麗句!」という僕のプレゼンの一節に触発されたのか、若者の活動に予算をつけて欲しいことを提案。それに対して、その場にいた世田谷区の職員さんからの率直なコメントと提案と指摘。別の職員さんも含めたこのやりとりが往復する。

僕からは、まずこの学生ボランティアの一人の声がみんなの声を代弁しているかわからないから他の若者の意見を聞こうということ、区はタイトな予算のなかで、その他の政策との優先順位を加味している、という普通のコメントと、

「そもそもお主、区役所いったことある?向こうは今日こっちに来てくれたよね?」

というやりとり笑

一方的に要求するだけの市民活動はもう終わりにして、政策決定者と当事者間のやりとりという、至極まっとうな対話の往復をもっと多く、いろんな形でやっていこうという提案。市民じゃないですか同じ。

そしてこのこと自体の価値を認めていこうじゃないですか。参加の価値を認めるということはこういうことです。

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先日、自民党の若者の政治参加検討チームで講演した際も、若者団体協議会の位置付けや若者団体の活動に助成金を捻出することなどを提言したが、時間が限られていたこともあり、それらの意義を十分に伝えることはできなかった。そういうわけで、今一度ここで補足してみる。また、そもそもの「若者政策」を整理することで、日本の若者政策が課題を浮き彫りにしてみる。若者参画、若者政策を打ち出す政党のみならず、働きかけているNPOなどの参考になればと思う。

目的合理的な思考・志向が捨象するもの

あなたがもし「ユースワークにもカリキュラムを」の矛盾に一切気づかないのなら「そっち側」の人間でしょう。

若者支援の関係者や、大人が注目するのは「数字」。ターゲット層の詳細やコスパや評価指標。バックキャスティングという言葉も聞きました。New Public Management系の用語ってやつですか。ざっくりいうとあまりにこの種の言説が当たり前になっていることが僕は怖い。(量的な分析アプローチを否定するつもりはない)

何かというとこういうこと。英米にはじまり80年代から世界に影響を与えた新自由主義の波は「公」を小さくして、効率化して、ITを駆使した正確なデータ調査に元づき、コスパのいい政策に優先順位をつけるようになった。スウェーデンの若者政策も90年代後半からStrategyやPriorityという言葉を使うようになっていることからも、若干の影響があることがわかる。

行政は無駄が多かったのかもしれない。というか本当に腹立たしいくらいに、意味不明なところが多いことは「あきれた公務員の貴族生活(若林 亜紀)」などを読んでいてもよくわかる。

それから、欧米でも日本でも事業評価が当たり前になっていく。評価にさらされたイギリスのユースワークは80~90年代にさらに肩身が狭くなり、職員も減少。以後、成果が測りやすい就労支援などに傾倒していく。たしかに、EUではある国の資格があれば、それを他の国でも使えるようになるなどの恩恵をもたらした。資格をmeasurable(評価可能)にしたからだ。しかしそれは一方で、「コンピテンシー(資質・資格要件)が揃わないと、その職業人にはなれないという捨象を招く。(それ以外はダメということ)

現在2167もある職種は、実は大正時代には約3万5000種もあった(伊藤洋志)のに、どうやってそんなに単純化できようか。

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今回は、日本人が海外にいながらにしてできる「ナリワイ(生業)」にはどんなものがあるのか、そして実際に「ナリワイ」にするためのサービスをまとめてみました。何も現地就職やバイトだけが食い扶持に繋がるわけではないことがよくわかります。

***

21世紀の豊かさ」を書いた中野さんの言葉でいうなら西欧のロゴス的な、視覚重視の「発展パラダイム」の中でこれらは作られたともいえる。この波は日本に何の疑いもなく広がった。政策レベルから実践レベルまで。政策、実践、マネジメントの効率化は否定しない。

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昨年は、現代資本主義の発展の行き詰まりが、イギリスのEU脱退やトランプ政権をはじめとする欧米社会の「排外主義的な政治勢力」の実際に権力を握ったことによっていよいよ現実した年でした。背景には、過剰な市場化による市民の経済的な格差の拡大や、いきすぎた個人主義の進行による社会分裂があります。 現代の資本主義社会の社会分断をどう修復するか?排外主義的な右派コミュニティへ対抗軸はあるのか?その答えを、「南型知」×「地域主義」に求めて検討したのが昨年コモンズによる刊行された「21世紀の豊かさ―経済を変え、真の民主主義を創るために」の編者・訳者である中野佳裕さんでした。本書のダイジェストを紹介します。

しかしこれらが捨象するものがあることに無意識ではなかろうか。最近ではビジネス新書でも、「無駄の重要性」とかよくみるけど?Googleの20%ルールっなんだったろうか。「モチベーション3.0」でダニエル・ピンクが話している「これからの創造性」とは何だったろうか。AI、IoTが左脳を使った仕事を代替するこれから、右脳を使った身体的な・人間本来的な仕事・空間を「測定可能」にすることに何の意味を持つのか。

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行政の少ないパイを取り合うために「評価の仕方」を議論することにぼくはやりがいを感じない。主体性、創造性は果たしてびっしり敷き詰められた「カリキュラム」から出てくるでしょうか? 予測不可能な「不確実性の時代」、その「カリキュラム」が本当に有効でしょうか? フィンランドは「科目」を廃止しましたね。Ready madeできるものってあるのかな。「プログラム化」することによって捨てているものがないかな。

ちなみに冒頭の「ユースワークにもカリキュラムを」を提案したのはサッチャーとのことです。

多様性は若者の一人一人の「内」にあること

座談会の「もっとリア充な人にきてほしい」と発言したある若者の言葉を発端に、またフロアが湧いた。ブダペストのEUの2020年の若者政策を議論するカンファレンスの冒頭で

「若者について話すのではなく、若者とともに話そう」(”Let’s not talk about young people, but let’s talk with young people”)

と発言したのはスウェーデンの若者学の研究者のエリック教授。スウェーデンの若者政策を綴った政策文書には、若者はこれまでになくその生き方・ライフスタイル・価値観が多様化し・複線化していることを指摘。日本ではかつてされていた「一億総若者(古市)」と若者を「輪切り」する言い方ができなくなっている。

フロアの別の若者が「一見リア充そうな人でも実は、人の目ばかり気にしているから本当は怖くて『ソフト』になっているから『普通』にみえるんだよ」と言ったことがその通りで、僕ら若者世代は奥も闇も深い。それをとんでもなく「複雑化」していると言わずに、「カラフル」なんだぜ!と僕は言いたい。

あらゆる属性の分断こそが民主主義の危機

ある参加者が

「若者はそうか弱者なんだ!」「あらゆる困難がある弱者同士で連帯ができる気がする!」

と。

ここはヨーロッパの社会民主党の集会か?

昨年のイギリスのEU離脱の日、ぼくはイギリス人の友人らとスウェーデンの夏至祭をストックホルム郊外の城で過ごす。次の日、彼女は号泣。ぼくが驚いたのは彼女の祖父母・両親が脱退に投票したということ。もちろん彼女は残留派。後に、これが単に世代間の価値観の分断を招いている象徴的な話しではないことを投票者の統計をみて知る。

経済格差のみならず、都市と田舎、世代による分断がいよいよ如実に現れ本格的に無理ゲー化してきたのが、英・米の2016年だった。

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今回は「Where to invade next? (世界侵略のススメ)」です。「侵略」と謳っていますが、その実はムーアが、ヨーロッパを訪ねる「旅行記」のようなものです。通常の旅行記と一線を画すのは、現地で「アメリカにとっての非常識」を目の当たりにするというミッションを背負っているという点です。

こんな時代におけるローカルな取り組みが担うことは何か。これまで無視していた、英国脱退、トランプに投じた人にデモや暴動で「反発」するのではなく、その背景を理解しようとすることではないか。排外主義的な思想になるその背景を理解することではないか。それが、異なる主義主張者同士の妥協点ではなく「浮揚点」を浮かび上がらせ、合意形成していく民主社会をつくっていくことになるのではないか。

今一度、こやって民主主義を市民に、(支配を)戻していくことではないか。それこそデモクラシーじゃないか。

(と自分で言った瞬間、トランプが就任演説で”And give it back to you…the people”と発言し、バッドマンの登場人物ベインのセリフと丸かぶりしてことをミームされていたことを思い出して恥ずかしくなる….)

身体化されたSNSが奪う若者の時間

もうひとつ、講演前に萩原先生と若者と雑談していたときに知ったこと。どうもこの5年前くらいから学生が忙しくなっているようで、ゼミなどの予定調整も大変の様子。返事も来ないとか。先生は、気になって何がそんなに忙しいのか聞いたら、LINEの話になったと。いくつもグループに所属しており、あらゆる通知が届きまくる。そしたら別のSNSの通知が届く。この繰り返しの末、既読無視をしてしまうと。

そういえば静岡でも同じように「LINEはみるようにしていません」という学生がいたことを思い出す。僕自身も共感でき、最近では「通知」はLINEくらいしかオンにしていない。

何が起きてるかって、

・1つのデバイスに集まるわずかな通知の山が大量の時間を奪っているということ。

・別に大して重要でないものと、重要なものが一緒くたになっていること。(地震通知と芸能人の不倫報道)

・平面化した過剰な情報の中で疲れてしまい、現実世界で重要なものとそうではないものの区別ができなくなっていること。

・意思決定が「通知」から「選ぶ」という受け身な「消費者的」なものになること。(終いには「接続」を遮断してしまい連絡も取れなくなる。携帯端末の意味ないじゃん)

IT畑の人は「デジタル・デトックス(解毒)」をすることでうまくデバイスを操り、自分の体を「放電」することもできるが、これがすべての人ができるわけではない。

何が怖いってデジタルデバイスがますます「身体化」していること。(萩原先生談)

スマホがどんどん便利になっていくのは、小型になったり、片手だけで操作できるようなったり、音声だけで動かせるようなっているから。それは「身体の一部のように」していくことで実現する。これはつまり、身体化していく「デジタルデバイス」が実態を伴う身体に与える影響が大きくなるということ。

LINEいじめからの自殺はこのことの象徴かもしれない。同じ、メッセージをやりとりをするものでも、手紙のやりとりだけで自殺まで追い込まれることはないだろう。身体との距離がますます近くなった、デバイスを通じたやりとりは、心の影響も大きいということ。まさに「攻殻機動隊」の世界がここにある。

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どうでもいい「通知」が「心を病ませる」ってのはここにあるのかと。だからといってMac BookもOne Plusも投げ捨てようとは思わないけど、こういう視点を得られたことはよかった。

グローバルな波を乗りこなす若者とそうじゃない若者、生活空間、経済、政治参加など様々な側面において二極化が進行していることを改めて認識させられた意義深い日となりました。

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