先日、スウェーデン人の友達とテレビを観ていてあるテーマについて議論になった。そのテレビ番組では、純スウェーデン人(外国籍の背景がないスウェーデン人)が1人もいない学校では、どのようにして生徒のスウェーデン社会への統合を促すのかということを議論していた。スウェーデン南部の第三都市マルメではイスラム系移民が急増し、反対勢力とのデモの衝突などが報じられているが、ここストックホルムでもその影響は大きい。僕がインターンをしていたストックホルム郊外のどちらの街も移民の割合が高い地域だったこともあり、個人的にかなり関心があるトピックだ。
こういった地域では純スウェーデン人が逆に少数派となるため、いじめの対象になる。(実際に、その友達もいじめられたという)。さらにスウェーデン語が第一言語ではない小中学校もあるらしいのだが(スウェーデン国内なのに…)、高校に進学するレベルのスウェーデン語の基準を満たせていない生徒がほとんどというのだ。
そういった状況のなかでスウェーデン人の両親に、移民背景のある生徒が多い学校と、そうではない純スウェーデン人しかいない学校のどちらかにいきたいかを質問すれば、答えは明らか。 当然後者だろう。わざわざ自分の子どもが、いじめられる可能性のある学校に子どもを入学させようなんて思わない。
さらに学校選択制度と民営化が悪循環に拍車をかける。学校は、公立私立関係なく生徒数が多ければ多いほど、政府から補助金をもらえるというシステムになっている。そのため、各々の学校は人気取りのために生徒や親に都合のいい学校へと都合よく変化していく。移民が多い地域では、その地域で最も話されている言語を第一言語とする、などという上述した現象が起きるのだろう。一方で純スウェーデン人の保護者は子どもを危険にさらしたくないから、そのような地域の学校に入れようとしない。そうやって移民の地域の学校はますます非スウェーデン化していき「スウェーデン社会」への統合はますます難しくなっていく。
しかしコメンテーターは、政治、教師、校長がいけないという一般的な見解を示すのみ。
政治家もメディアもそういった問題から目を背け続けている。象徴的だったのが最近のニュースだ。移民大臣トビアス・ビルストロェームの発言に対しての非難だ。彼が、不法移民を隠しているのは「目の青い髪の毛が金髪スウェーデン人ではなく移民背景のある人だ」という一言対して様々な関係者がいっせいに非難したのだ。終いには本人が謝罪し、ラインフェルト首相は謝ってよかったという始末。さらに後日のニュースでは、左党青年部のリーダーがtwitter上で
”I want to shoot Tobias Billström. I will be truly happy when he dies. From the depth of my heart, I really mean it,”
と脅迫したとして辞職を強要されたというのだ。
しかし移民大臣が放った言葉はそこまで非難するに値するだろうか。目の色や髪の毛が金髪などとちょっとでも人種に関する発言をするとこのような制裁にさらされるこの傾向はなんなのだろうか。そうではなくて、移民政策そのものについて議論するということが重要なのではなかろうか。
マイケル・サンデル著の、これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)では、興味深い事例を紹介している。1970年代にニューヨークのブルックリンという郊外のスターレット・シティというところには公営の公共住宅があり、多様な人種がいり混ざるコミュニティをつくるために異なる人種・民族間の入居者の割合を制限したというのだ。アフリカ系アメリカ人とヒスパニックの入居の割合を40%に抑えるなどの処置を施すことでコミュニティの多様性を確保しつつ統合を促進させたのだ。いわばアファーマティブアクションの逆バージョンとも言えるだろう。このような移民政策の議論をせずしてどうしてパッシングに走るのだろうか。今後もフォーローしていきたいと思います。